桜 サクラ さくら
今年の春は好天に恵まれ、二週間ほど桜の花を存分に楽しむことができた。
京都や和歌山県、淡路島へも足を運び、ソメイヨシノやしだれなどの桜の名所をたくさん見て歩いた。それぞれに美しい春の風物詩がありとても良かった。
またそんなに足を延ばさなくても、見ごたえのある桜の公園が家の近くにあった。三年前まで知らなかったが、体操教室でお花見に参加するようになってから、毎年見させてもらっている場所だ。神戸市垂水区新多聞の公団第三住宅にある桜の並木道である。誰でも自由にゆったりとした歩道を散策できる。
あまり知られていないが、手入れされた桜の花を心ゆくまで楽しむことができるので、是非とも紹介したい。
今年の春も体操教室の仲間とお花見を兼ねて散策を楽しんだ。
広々とした空間をうずめるように、黄色のレンギョウ、赤やピンクの桃の花、真っ白な雪やなぎなどがいっせいに咲き乱れているのだ。空が真っ青なのでピンクの桜の花がお互いを引き立てて美しい。まるで夢の様な別世界を見ている感じだった。
「今年の桜もすごく綺麗ね。天気が良くて最高のお花見になったわね」
その時、お花見を誘ってくれた先輩の福永さんの声がした。
「皆さーん、ちょっとだけ目線を下にして桜を見て下さーい。ご覧の通り、今日の桜は特別に綺麗だけれど、上に咲いているものばかりじゃなく、木の根っこに咲いている花も見てあげてねー」
急に声がしたので皆で後ろを振り返った
「まあ、ちっとも気がつかなかったけど可愛らしい花ね。小さなピンクの桜が大きな木の下の方に、子供のようにくっつくように咲いているわ。本当に気がつかずにご免ね」
皆で一緒になってその小さな花をいつくしんだ。
「来年からは一本の桜の枝も見落としの無いようにしましょうね」
「はーい、そうしましょう」
お互いに顔を見合わせながら、ドット笑って今年のお花見をお開きにした。
今日一日、皆で沢山の花が見ることができた喜びに感謝している。久しぶりにのんびりした気持ちで過ごせた。
日本の桜は本当に美しい。見る人を幸せな気持ちにしてくれる。
いつも元気で明るい先輩の福永さん、今回もお花見の幹事をしてもらい本当に有難うございました。
来年も教室の仲間と桜を見たいですね。お世話になりますが、どうぞよろしくお願い致します。
毎年桜の季節を迎えると花好きの人は、たまらなく嬉しくて待ち遠しくなるものだ。花を見ると自然に心が弾んで、元気が湧いてくるからだろうか?
私はどんな種類の花も好きなので、名もない野草でも綺麗だと思ってしまう。子供の頃から梅や桃、特に桜の花が大好きだ。なぜか“さくら“という花の名前は儚げで好きだ。花の命は短いが、ある一面とても華やかさが際立っているし、花の心が感じられる。
日本の桜が世界に紹介されてから、八十年以上たっているらしいが、この季節に咲く桜の花は、やはり日本が一番美しいと思っている。日本独特の風景とか、空気の温度とか風の流れなどに関係があるのだろうか?
それとも日本独特の春の訪れを感じさせる何かが、不思議に桜の美しさを一層引き立たせているのかもしれない。
私は“さくら”の季節になると、夫の父親をいつも思い出す。義父は亡くなって三十年余になるが、その生涯は桜の花のように、あまりにも儚くて哀しい。もっと幸せな人生を送ってもらいたかったと、私は今頃になって思うことがある。
義父は淡路島出身で、あまり有名でない日本画家の生涯を送った。第二次世界大戦がなかったら、日本画家として大成できていたかもしれないと思うことがある。
義父は大正時代に淡路島の塩田という漁師町の網元の家で生まれた。五人兄弟の末っ子だった。十五歳の時にある人から絵の才能があると言われ、京都西陣織の図案を描く仕事などに従事していた。しかし子供の頃から好きだった日本画を深く学びたいと決心、昭和十八年に当時、日展審査員をしていた日本画家、堀井香波に弟子入りして三年間学んだ。
義父が唯一残してくれた一冊の本“桜”を見るたびに、もっと詳しく桜の花のことや、修行時代の話を聞いておけば良かったと後悔している。
桜の絵を描かせたら、かなりの腕前を発揮した人だったと、亡くなった夫と義母に聞いたことがある。
私が結婚した翌年、昭和四十九年頃の話だ。義母から嬉しそうな声の電話がかかってきた。
若い頃に義父が描いた日本各地の“桜”の絵が、連続テレビドラマの表紙を飾るというのだ。夫と一緒に是非見て欲しいと頼まれた。
「お義母さん、テレビでお義父さんの絵が紹介されるなんて、本当に嬉しいですね。本当に良かったわね」
「昭和十年代に描いたものが三十年以上も経って世に出るなんて不思議ね。でも世間に認めてもらえて本当に嬉しいわ」
義母は涙声だった。二人で苦労した昔を思い出したのだろう。
毎年子供を連れて何度か夫の実家へ行ったが、義父は日本画が上手なことを、私に一度も自慢しなかった。結婚後何年か過ぎて、初めて私が日本画の画材の話や下絵のことを聞いたことがあった。その時いつももの静かな義父の顔がいっぺんに笑みに変った。
生き生きとした表情で、得意げな笑顔が今も忘れられない。
人前ではとても無口で、普段から目立つことを好まない、おとなしい性格の人だった。
京都で日本画を描いていたが、戦時中に義父の二人の兄弟が戦死した。そのために急きょ家業の漁師の仕事を、残った兄弟で引き継ぐ羽目になった。
今まで絵筆しか知らない身だったが、生活のため自分の夢を叶えることを諦めた。義父自身は絵を描き続けていたかったが、兄弟に言えないでいたのだろう。さぞかし無念だったと思う。
毎年夏休みに子供を連れて夫の家を訪ねたものだ。義父とあまり話をすることがなかったように思う。
たまに私と目が合うと、懐かしむように絵の勉強をしていた頃の苦労話や、いろんなエピソードを語ることもあった。
「門下生として弟子入りしても、三年間は京都の西陣で、着物の下絵ばっかり描かされたなあ。いつになったら絵の勉強をさせてもらえるのか待ち遠しかったなあ」
「そういう世界なのですね」
日本画について無知だった私は、次に何を質問したらいいかも分からないでいた。
「今までに何百回も鳥や花や人物画を描いてきたなあ。何年かして弟子入り先の先生に“桜”の絵を三年間位勉強させてもらい、一緒に日本全国の桜を描いてきたものだ」
義父は昔を思い出いだしているのか、遠いところを見ていた。
「その修業の時代が人生で一番楽しかったなあ。上手く描けると酒が飲めるし、先生が京都祇園でお座敷遊びもさせてくれた。けれども絵の大半を自分が描いても、先生がちょっとだけ手直しして、先生の名前になってしまう。
若い時はそれでも好きなだけ、お酒が飲めたので満足やった。
弘子さん、桜の花を見るのだったら、仁和寺が綺麗ですよ」
義父はその話の続きから、日本各地の桜の花について、いつもより長く語ってくれた。
「桜の花がお好きなのですね、私も桜が大好きです。一度だけでも描いてみたいと思いますが」
とは言ったものの、日本画などあまり見たこともないので困ってしまった。
「まあ、その時は言ってください」
どうも無理だと悟られた気がした。
「弘子さん、ちょっとだけ苦労話を聞いてくれる?」
いつの間にか義母が私のそばに来ていた。
「昔はね、それはもう苦労の連続だったわ。この人は私と結婚してからもずっと、お金の大切さが分からなくてね。生活費が足りなくても知らん顔で、絵ばっかり描いていたのよ」
「はあ、そうだったのですか?」
「今でもね、この人の絵を買いたいと誰かがやってきても、お金をもらわない主義なの。そして絵をダダであげて喜んでいるのよ。だから本当に困ってしまうわ」
義母はもうこりごりだと困り果てたような、深いため息をついた。
「絵というものは、売り物ではない。欲しい人がいれば気持ちよくあげて、喜んでもらえばそれでいいのだ」
この義父の言葉に
「そんな調子だから、この歳になっても私が近所の子供らに、日本舞踊を教えないといけないのでしょ」
この言葉が終わらないうちに、義父は気まずい顔で席を外した。
義母の話によると、義父は子供の頃より絵筆を持つのが好きだったらしく、家族も将来を有望視していた。
義父の両親はあるだけの私財をつぎこんで、遠い京都まで日本画の修業に出したそうだ。
義父が修業を積んで十数年経った昭和十八年に、やっと念願である第二回の京展に入選したのだ。
その絵は春の訪れを喜んでいるような、菖蒲といちごが描かれていた。私は屏風に仕立てられた物を、二回ほど見せてもらった。
夫も私も義父が描いた屏風が欲しいと叔父家族に伝えた。しかし、今までに義父にかかったお金が多大だったと言って断られた。
その屏風を所有していた義父家族は、昭和六十年頃から行方不明で音信不通になっている。
今、私の手元には義父が残してくれた日本の“桜”図鑑の分厚い本と、堀井画伯が夫の五歳の時に描いてくれたという色紙だけだ。
この図鑑は堀井画伯が義父と一緒に、日本各所を旅しながら完成させたものである。千五百冊しか発行されていない貴重なものだ。中を開けると見事な“桜”が数多く描かれて、見る人を感動させると思う。
図鑑を発行したのは、当時日本の桜守として有名な佐野藤右衛門とその息子さんである。とても立派な本に仕上がっている。
外国の大使館にも寄贈されたと聞いている。
その一冊の図鑑だけが我が家のお宝である。
お義父さん、日本の桜の絵を後世に残してくれて、本当に有難う。
さくら、サクラ、桜
いつまでも世界中の人に、愛されておくれと願っている。