小松弘子のブログ

やさしいエッセー

桜守 佐野藤右衛門

 毎年春に桜が見られる日本で生まれ育ったからかもしれないので、子供の頃から桜が好きだった。

 花見の季節になると親に連れられて、海が一望できる須磨浦公園鉢伏山へよく出かけたものだ。

 私はその頃に朝から晩まで桜が見られたら、どんなに素敵だろうと思ったりした。成人してからは家族そろっての花見は少なくなった。

皆それぞれに忙しくなり、お花見を忘れてしまったのだろう。それでも私だけは通勤途中で桜を見たいと思ったら、次の日に一人で京都まで出かけたりした。

若い頃から京都の桜や紅葉は、花の色や木の葉っぱが他で見るものと違い、とても鮮やかで美しいと感じていた。のちに分かったのだが、京都で植樹されている桜やもみじは昔から専門の職人さんが、季節ごとに肥料や殺虫剤を散布していたのである。観光客がいつ訪れても美しいと感じられるように、入念な手入れをしていたのだ。美しさを保つために陰の努力をしている人びとの存在を忘れがちだ。

自分が大人になり花や野菜を育てる

内に、少しずつ植栽の大変さが分かった。同時に自然の恵みに感謝する心が芽生えた気持ちがする。

私達が普通「さくら」と呼んでいるのはソメイヨシノのことである。私はある時ピンクが濃いしだれ桜を見て感動したことがあった。

「こんなにも綺麗な桜があるなんて本当に素晴らしい。他にもっと色々な桜の種類があるのでは?」

 あれから幾年も桜の種類を調べることを忘れてしまった。

 

最近少し暇ができたので、義父に貰った「桜図鑑」を出してきた。春になり桜の花が恋しくなると、たまに本を開くが、全部のページを見たことはない。

久々に図鑑を手にしたが、とても重く、自分が年を取ったと思った。何十年か前にこれをもらった時は感じなかった感覚だったのに。当たり前のことだが寂しい気がする。

図鑑には珍しい品種を含めて、百数種の桜の花が描かれている。

桜の絵を描いたのは昔、日展の審査委員をしたこともある堀井画伯と門下の義父である。一枚一枚の桜の花びらが、何十年経っても色あせていないのには驚いた。

印刷の技術と桜そのものを本物のように見せる技を研究したことを随想で知った。

本の表紙に発行者 「佐野藤右衛門著」の名前があった。

以前に何度か聞いた名前だった。そういえば四十年ほど前に、義父との会話の中で耳にした覚えがある。

分厚い桜図鑑の絵を何度か見たが、序文とかあとがきの随想は読んだことがなかった。

今回自分のエッセイを書くために、本の一ページから読み直す作業をした。その時に初めて桜図鑑の発行者が 「佐野藤右衛門親子」 であることを知った。

桜図鑑を発行することで、日本の桜を世界に紹介したいと思ったのかもしれない。

本を読むと 「桜守」 とうたわれた佐野親子は大正時代から桜をはじめ、もともとは樹を植生する造園業をしていた。

 主にその時代から全国で桜の品種改良が行われ、 「桜」 が一気にもてはやされた。

ところが第二次世界大戦後の混乱期には、花を咲かせる余裕のない時代になった。

例外なく桜も見向きもされないでいた。その影響で桜をはじめ、造園業者は国賊呼ばわりされたこともあったらしい。

「桜」 は奈良時代から宮中と縁が深く、京都に都が移されてから特に改良が繰り返され、皇室の人達に愛されてきた。

まもなく日本が戦争から立ち上がる日がくると、手の平を返すごとく 「桜」 が見直された。その後、素晴らしい花を咲かせる 「桜」 が大勢の人に理解され、全国の愛好者が増えることになった。

 京都で生まれ育ち、 「桜」 をこよなく愛する佐野家族は、寝る間も惜しんで 「桜」を育ててきた。

現在日本で美しく咲いている桜の健在は、 「桜守」 であるこの人達のお陰である。

勿論、日本の桜を愛する人の協力や理解者が大勢いたことも幸いしている。

「佐野藤右衛門」 本人の随想によると、日本の桜はもともと山桜と呼ばれるものが多かったらしい。桜の花は自然環境により複雑で種類が多く、人間の顔のように同じものがない。

中でも主な二百五十種を園芸的に大別すると、山桜、彼岸桜、里桜、染井吉野の四種になる。

佐野氏の書かれた桜の歴史や、桜が国花だといわれるゆえんを、本の中から少しだけ引用します。

「古来桜は皇居について廻ったので、桜もまた文化の中心地について廻った。

すなわち滋賀の都、奈良の都、平安京と都とそれぞれの地に遷った。したがって一千年の都となった京都に多くの名桜が伝わり、全国一の名所となったのも当然である。

江戸に幕府が開かれると、桜も京都と江戸に二分された。しかし明治初年東京遷都によって、京都の桜は衰微の一途をたどっていった。父は何とか地元の桜を助けたいと思案している頃があった。

この時、桜に関して父を助けてくれるという人達が現れた。著名な四人の大恩人に巡り会うことができたのである。

京都西本願寺門主大谷光瑞、勧修寺経雄、臼井少三郎、香山益彦の四氏である。

 さらに大阪では、桜大人として名高い笹部新太郎氏、わが国植物学会の父で、世界的権威者の牧野富太郎氏に限りない恩恵を授かった。

 こうして京都は三月の半ばから五月の中旬まで、つぎつぎに花が咲き続けることができる土地柄になった。また桜の花を見るのに最も恵まれた環境にある。

 将来の大計は、宅地のうちの六千坪を桜の育成地にあて、品種二百五十種、約三万本を栽培していくと決めている。そして朝夕桜と共に生き、生涯を桜に捧げることを念願している。

 自分が育成した桜は自分のものでなく、ひろく私たち人間世界のものと考えている。個人の力では土地、時間、労力、費用等あらゆる面で限界がある。したがって真に理想的な研究、栽培はこれを国家の事業とし、学術的研究と大規模の土地に育成栽培することが望ましい。

 そして日本の桜の美をこの上なく発揮するよう希望し念願したい」 と結んでいる。

 随想の中で 「桜と心中してもいい」 と思うくらい花を愛したこの人の人生に感動した。

 来年の桜を見る時、私は義父と堀井画伯と佐野氏を想うことだろう。