小松弘子のブログ

やさしいエッセー

空と海と空海と

 十月に入り、気候も安定して晴れの日が多くなった。特に今朝は久しぶりに空が澄み切って、秋の行楽日和には最適だった。青空を満喫できる山や海が見たくなり、和歌山県高野山へ家族と足を運んだ。

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金剛峯寺大門

 その日は朝早く家を出たので、午前中にお寺に着いた。思い起こせば、過去五年間に高野山へは十回くらいになる。最初のころは特に目的もない、ただの参拝に終わっていた。今回は先日のテレビの番組で、『空海』すなわち弘法大師の生涯を見ることができた。

空海』の生涯に興味を持っていたので、高野山へ行けば何かしら新しい発見が見つかる気がした。以前にも『空海最澄』の講座を受講した時、なぜかもっと詳しい『空海』の歴史を知りたいと感じていた。

関西地方から和歌山県高野山は、車で二時間半くらいと身近な距離だが、頂上にある奥の院まではカーブがきつい。

初めて高野山に参拝した人は、お寺の数の多いことにまず驚くだろう。眼下には民家が何百とあり高野山の街を形成している。お寺が存在するだけでなく、商店街、銀行、病院があり、日本のどこにでもある街並で、まさしく一つの都市である。

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高野山は宗派を問わず、誰でもお参りが出来るとあって、いつも大勢の参拝でいっぱいだ。奥の院に通ずる参道の両側には、全国の有名な企業の墓石や、あるいは無名の小さな墓石が何十万個もある。

テレビによると弥勒菩薩が五十六億七千万年後に現れて、その時『空海』が通訳として再び復活する、と多くの人に信じられているそうだ。それで現代でも高野山に墓石を建て、出会いを期待しているのだ。

参道は高さ十メートル以上を超える杉の木が、何百本と連なっている。おおかたの人はまず圧倒されるだろう。お寺独特の、少し薄暗い道をゆっくり歩くこと約二十分で、いよいよ『空海』が眠る居所の近くまで行ける。お参りに来た人は、少し離れた石の敷居の前で深々と頭を下げるのが風習となっている。私も慌てて一礼をして石段を進んでいった。

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奥の院

千二百年余前に、『空海』が苦難をおしてこの地を踏んだ。先人たちの物凄いパワーを感じた。まさしく人間の生死をかけた苦境の世界だ。

空海』は超人的な頭脳と精神と身体を兼ね備えた達人だった。何人も真似をすることは出来ない。

このことからも『空海』が世界で存在した天才の三人の中に入っている。私はテレビを見るまで、この事実を知らずに生きてきた。平凡な人生で満足しているのが、おこがましいかぎりだ。凡人にはとても理解できない話だ。

 

 そんなことを考えて手を合わせていた時、ふと亡くなった母の口癖を思い出した。

「ひろちゃん、あなたが生まれた時、すぐに付けたい名前があってね。その字はね、遠い昔、讃岐のお寺に『弘法大師』という偉いお坊さんがいたのよ。その人にあやかって、女の子が生まれたら絶対に名づけようと思っていたのよ」

「ふーん、お坊さんの名前からね……」

 私はこの名前が、あまり好きでなかった。その頃しゃれた女の子の名前には、「子」が無かった。もうちょっと素敵な名前の方が良かったのに、といつも思っていた。当時、漫画に登場する弘子は、意地悪な子供が多かった。そのたびに私は嫌な思いをしたものだ。けれども母が得意そうに名前の由来を話していたので、私は反論できなかった。

 母は私が二歳から十歳くらいになるまで、何回も言っていた。母の両親は香川県の生まれで、親戚も金毘羅さんがある琴平近辺に多い。母方の親戚はみんな信心深い人達だった。そんな中でのんびりと育った母は、結婚してからもお彼岸になると須磨寺に子供を連れていった。そして四人の子供の名前の由来を説明する癖があった。

 特に私の番になると、無意識のうちに声が大きくなり恥ずかしくて仕方なかった。もういい加減にして、とうんざりしたものだが、後に私が結婚して子供を持ってから、やっと母の気持ちが理解できた。母は自分の願いや理想を、子供の私に託したのだろう。それまでの私は他の兄弟と違って、何でもよく母に反発をした。そのたびに母によく叱られたが、ある時初めて悲しそうな目を見た。

 私はこの時はっとして、母が可哀相に思えた。母は自分の人生を、夫よりも子供達のためだけに生きているのが分かっていたからだ。年老いてからも贅沢もせず、自分のやりたいことは控えた生活だった。

「子供達のために生きることが、私の一番の倖せや」

その言葉を思い出す時、涙がこぼれる。もっと老後の生活を自由に楽しんでほしかったのに……。

お母さん、『空海』みたいになれなくて、ごめんなさい。

 

 四国八十八か所の旅は、『空海』を抜きでは考えられない。ほとんどのお寺に置かれている冊子読んでも、沢山の偉業と歴史が語られている。

 三十四番札所の種間寺には、弘法大師が唐から持ち帰った五穀の種を蒔いたという伝承がある。そのお陰で日本の食糧が豊富になったと言われている。

私の子供の頃に母がよく言っていた言葉を思い出す。

弘法大師さんが、唐の国から帰る時、自分の足の太ももを切り開いて、命からがら日本に持ち帰ったのよ。だから一粒も粗末にしないでね」

 現在でも日本では、この風習が大切にされている。

また三十五番札所の清瀧時の名前は、弘法大師がこの地で修行を行い、満願の日に金剛杖で地面をついたら滝のように清水があふれ出たという。きっと地理や土木学を唐で学んで知っていたのだろう。

 この他、徳島県香川県に限らず、有名な伝説が数多く語られ現在でも生活に役立っている。

 このことからも『空海』が普通の人間ではなく、宇宙人と言われるのだろう。十年かかる真言密教の教えも、三年で修得して日本に持ち帰った。あの時代に航海が成功したことも、摩訶不思議な事実だ。

 高野山では『空海』が、生きていると信じられ、千二百年経った現代でも、奥の院の居所に食事が運ばれているのだ。それぐらい偉大な人物だったとされている。

 

 四国八十八か所の旅を体験してから、いろんなことを知り、多くの人に出会うことができ、本当に良かった。遠くへ旅をした時、自然の中でふと思ったことがある。果てしない空と海は、宇宙を連想させる。

弘法大師が青年の頃、修行をしていた時代に『空海』という名前を付けたのではないか?

あくまで私の勝手な解釈だが……。

「高い空と広い海」を見る時、いつも思うのだ。

時折、空や海の雄大さをみると、人間のちっぽけな欲が馬鹿馬鹿しく感じられる。

自分の残された時間を、楽しく過ごすのが一番の幸せか?

 あー、あー、ちっぽけな欲が顔を出す。