小松弘子のブログ

やさしいエッセー

もしも あの日がなかったら…

 今年の夏もカラオケ教室の先生の、貴重な戦争体験談を聞くことができた。第二次世界大戦で、数奇な体験をされた話を参考に、戦時中の悲惨な記憶を残しておきたいと思った。

 今から七十二年前に終わった、第二次世界大戦のまぎれもない真実の記録の話である。

 この戦争により多くの尊い命が奪われたことを、私達は心に残さなければいけない。また戦争による多大な被害に今も苦しみ、やり場のない怒りを消せない人々がいる事を決して忘れてはならない。

 この戦争で大切な人を失った人々の、消えない傷が早く癒えるように祈りたい。第二次世界大戦だけでも死者と行方不明者が三百二十万人を超えている。そのやりきれない悲しみを自分に置き換えて欲しい。生きている限り、戦争の無意味さを伝えなければいけないと強く思う。平和ボケが進まないうちに。

 

 一九四五年八月六日と九日に、日本の広島県長崎県で絶対に起こってはいけない事実が歴史に刻まれた。原爆投下という最悪の悲劇の幕が落とされてしまった。

 昭和二十年八月九日、ここは日本独特の美しい風景が多く残る、文化都市長崎市の中心地に近い海辺の町。その日はよく晴れて真夏の太陽が、大勢の人達の上に降り注いで平和な景色に思えた。海水浴に夢中の子供達は幸せ一杯だった。その日は朝から空襲警報が何回か鳴っていた。空を見上げても昼ごろまでは敵の飛行機が来なかった。てっきり今日も飛行機が来ないと、ほとんどの人は安心しきっていた。

 その時、僕は突然に見たことのないことのない光景に驚いた。風が舞い、とてつもない強い光と影が走ったのを見てしまった。直後に飛行機の爆音と突風が僕を通り過ぎた。今までにない、あまりにも激しい衝撃に呆然とした。ひょっとして自分は夢を見ているのか? いったい自分の身に何が起こったのか? 小学六年生の僕が理解するには、あまりにもひど過ぎる状況に、思わず身体がガタガタ震えたのを覚えている。この瞬間は、それが史上初めて人類に落とされた原爆で、脅威の殺傷能力を持つものだと知らなかった。すでに広島に落とされ二十万人が死んだことも知らず。

 もしも、あの日が無かったら…

 

 あの日いつものように、十人の友達と一緒に泳ぎに行った。故郷の長崎の空と海は澄み渡たり、いつも以上に青くて、とてもきれいだと感じていた。僕はその日何故か泳ぎたくなくて、ぼんやり遥か遠くの沖を行く船を見ていた。父親のように船乗りになりたい夢を見ていたのかもしれなかった。

 どど、どーん、がらがら、びしゃ。青天の霹靂ともいえる事態に遭遇した。急に風が吹き、青空が真っ暗に変わった。何か大変なことに巻き込まれたと思ったが、一瞬気を失ったかもしれなかった。その後に何か解らない物が目の中に、風と一緒に飛び込んだ。目がかすんで見えなくなり、自分の瞼を何度も何度もこすった。すぐに見えることができたが、嵐のようだったのでとても怖かった。一刻も早くこの場を離れ、家に帰りたい、とそれだけが頭をよぎった。子供心に天変地異を経験したと思った。

 三十秒位して僕が砂浜を立ち上がると、五メートル先に乳母車が倒れているのが見えた。そばで小学五年生位の女の子が赤ちゃんの手を握りしめて、わあー、わあー、泣きじゃくっていた。僕はその時ふっと我に返った。あの女の子は僕が砂浜に座った時、赤ちゃんをあやしていたのを覚えている。真夏の太陽がまぶしく、僕はその暑さから逃れるため物置小屋の影にいた。今考えると、小屋の影にいたから、おそらく原爆の被害を避けられたのだろう。

 その時、女の子が子守りをしていた赤ちゃんの小さな頭が見えた。僕は夢中で乳母車に走り寄った。大丈夫だろうか? さっきまで機嫌よく座っていた赤ちゃんは、ぐったりして、とっくに死んでいるようだった。ああー、赤ちゃんが死んでいる。死んだ人を見るのは初めてだったので、僕はその場に立ちすくんだ。物凄く悲しいはずなのに、僕の涙は出てこなかった。きっと、さっきの爆風で目を強くこすったせいかとも思った。事実そのせいで十年後、一時的に目が見えなくなったことがあった。多量に喉から血が出ることも経験した。原爆の恐ろしさをまじまじと感じる歳月を何年も過ごした。

 当時を振り返ると、夏休みは毎日のように、数人の友達と海で遊ぶことが日課になっていた。昭和二十年八月九日の海岸で、奇しくも友達と生死を分ける羽目になった。元気いっぱい海で泳いでいた友達は、頭や顔や背中に大やけどをし、悲壮な顔をしていた。可哀相で観る影もなかった。ある者はこちらに向かう途中、僕の目の前で、ばたっと倒れて息を引き取った。僕はその子の苦しそうな顔を見たが、どうすることもできず、その場から逃げた。泳いでいた人達の怒涛の様な叫び声と涙声が、何十年も耳から離れなかった。

 まるで地獄絵のようだった。自分だけが、たいした怪我もなく家に帰りついたことが、恨めしいとさえ思い出すこともあった。今思うと奇跡という他あるまい。もし、あの日、友達と一緒に海で泳いでいたら死んでいたかもしれないだろう。戦争の恐ろしさをまじまじと知った。

 自分の父が貨物輸送船の船長をしていたので、僕が六年生になるまでは、一年に数回しか会っていなかった。大きくなってからも他人のような父に、なかなか馴染めなかった。あまり家に居ない父を、子供なりに非難していたのだろうか? それとも寂しかったのか?

 そんなことばかりを考えていたのか、不思議にその日だけは何か面白くなくて、海に入る気がしなかったのだ。今になって時折、父が僕の命を守ってくれたのかもしれないと思うことがある。

 

 家に帰る途中の町は、黒い煙が充満して焦げ臭かった。建物がほとんど無残に破壊され、真っ黒に焼け焦げた人間や動物の死骸が、そこらへん一面に山のように積まれていた。辺り一面、ムッとしたような臭い匂いで、目がくらみそうになった。初めはハンカチで鼻を覆っていたりしたが、何十分か過ぎると悲惨な光景さえ、だんだんと気にしなくなった。ただ家が恋しくて、必死で町を駆け抜けることしか頭になかった。

 命からがら自分の家にたどり着いたのは、昼を何十分か過ぎていただろう。やっと家に入ると、母親と兄弟は真っ青な顔で突っ立っていた。僕を見るなり駆け寄ってきて、無事でよかったと泣いて何度も抱きしめてくれた。けれども僕は残してきた友達のことが心配で、すぐに家の外に出てみた。近所の人達もただ茫然として、ざわざわと何か喋っているばかりだった。

 そのうちに、ぎゃーっと、母親たちの泣き叫ぶ悲鳴にも似た叫び声が、ほうぼうから僕の耳に入った。きっと、大やけどを負った子供達が、必死で自分の家へ帰ってきたのだろう。その中に僕の仲良しの友達が数人いるはずだ。友達は果たして助かったのだろうか?

 友達十人で海へ行った。しかしながら家にたどり着いたのは三人だけだった。僕はその事実にがっくりした。母親たちの泣き叫ぶ声がいつまでも続いた。

 この時、初めて僕は大泣きに泣いた。仲良しだった友達を助けることもままならず、今もなお、あの時の悲惨な状況を昨日のことのように思い出す。と同時に胸が痛み、苦しくて思い出すのが辛くなる。戦争は絶対に嫌だ。こんな体験は二度とご免だ。孫や子供達にこの戦争の悲惨さを話したくない。しかしながら、誰かに話したくなる八月九日だ。

もしも、あの日がなかったら…

正直言って孫や子供達には、あまりにも辛すぎて詳しくは言えないでいた。

 

 先生は毎年八月九日近くになると浮かぬ顔で、たまに生徒の私達に、戦争の体験を少しだけ話してくれた。おそらく自分の身体を通して戦争の悲惨な光景が、ついつい言葉に代えて出てくるのだろうか?

 私は戦後すぐに生まれた方なので終戦後、十年間位は街のあちこちに防空壕や負傷した兵隊さんの姿を数多く見かけた。道端で負傷した兵隊さんの姿を見かけたが、どの人もとても淋しそうな顔で痩せていた。あの頃、昔住んでいた家の近くの公園に、アメリカの進駐軍が戦後何年か住んでいて昼間でも怖かった。おおかたのアメリカ兵は日本人と違い、陽気で日本の生活を楽しんでいるように見えた。今でも私は映画やテレビで見た戦争の映像を見ても、その度に恐怖と怒りを覚える。現代でも戦争を起こす人間がいることを、たまらなく腹立たしく思う。

 この日の先生の話は、まだまだ終わりそうもなかった。二十分も原爆の話を聞いたのは初めてなので、戦時中の生活が手に取るように分かった。今まで詳しい話はあまりされなかったのに、今日は何故なんだろうと先生に思いきって聞いてみた。

「それはね、僕が今生きている間に、戦争の醜さを誰かに覚えてほしいと思う反面、自分の気持ちの整理をしたいんだ。なんせ、年を取ると何事も忘れっぽくなるし、明日のことさえ、ままならない世の中だ。自分の残された時間、戦争が決して起こらないように願うだけだ。君らに幸せに暮らしてもらいたいと思うからだよ」

 

 先生の話は、もう少し続いた。

 思い出すと幸いに僕の家族は全員が、その時は怪我もなく無事なように感じた。しかし、何年かして原爆の恐ろしさをまじまじと体感する羽目になった。終戦後、被曝した人の後遺症の数が、だんだん増えてきた。

 やはり予感した通り自分も例外ではなかった。現在のところ八十三歳までわりあい元気で生きているが、今までに何度か原爆の後遺症で悩まされた苦しい時代が十年間あった。被爆した当時は、それがアメリカによって作られた、人類を滅ぼす最初の原子爆弾であることは、誰もが知る由もなかった。長崎に投下された数日前に、広島へも原爆が投下されたことを知った時は、非常に腹が立った。人類の財産を破壊し命を奪い、人類の幸せを平気で狂わせた原爆を決して許せないと…

もしも、あの日がなかったら…

 

 先生は今も当時を振り返りながら、未来に戦争を絶対に起こさないでほしい、日本の平和と安全を維持する為にために、過去の戦争を忘れないでほしいと思っていることだろう。今日もあの忌まわしい惨禍にも負けず、精一杯生きている。戦争の悲惨さを未来に伝えるべく私達に語ってくれた。今でもありありと七十二年前を記憶しているのには驚かされる。きっと頭が良いのだろう。

 もしも、あの日が無かったら…

 現在の日本は、果たしてどうなっていただろうか?