小松弘子のブログ

やさしいエッセー

苗字の謎 発見

 日本では赤ちゃんが誕生してしばらくすると、誰でも苗字と名前がつけられる。現代ではごく普通のことであるが、国民全員に苗字がつくようになったのは明治時代になってからの制度らしい。昔は一部の豪族や身分の高い士族などに限られていたことは誰もが知っている。私は自分の苗字がいつごろから始まったのか知りたいと小学生の頃から常々思っていた。そんなに昔から苗字があったと思っていなかったので、思いきって父に尋ねたことがあった。

「お父さん、この苗字だけど、いつの時代につけられたの? 教えてほしいな」

「そうやな、だいぶん昔からあったらしいんや」

 父も何時代かは知らなかったらしく、答えは分からずじまいだった。この質問はこれっきりしなかった。けれど頭の中から消えることはなかった。

 社会人になり、結婚後、少し暇ができた頃新聞に名前の由来の本が何冊か紹介されていたのを知り、すぐに買った。けれど自分の苗字が三冊の本には載っていなかった。なぜだろうかとその頃はあまり気にせずに諦めた。いつか見つかるものだと心に閉まっておいた。

 それから十年後、確か昭和六十年頃、久しぶりに徳島県から父の兄が実家を訪ねてきた。

「まあ伯父さん、お元気でなによりですね」

「やあ、あんたもすっかりお母さんになったなあ。実はなあ、わしも年老いてきたので先祖の墓が気になり、あちこちのお寺や図書館で古い歴史を調べているんや」

 どうも先祖のルーツを探しているらしい。その伯父さんの話では、五年間で集めた資料を基に八百年にわたる系図を完成したいとのことだった。

ノートを見せてもらって私はビックリした。思っていた通り何百年前から苗字があったのだ。

「叔父さん、すごく頑張ったね。偉いわ」

「そうやな、よかったらノートを見て参考になるところがあったら写していいよ」 

「有難うございます。私も前から苗字のことが知りたいと思っていたので嬉しいです」 

 伯父のノートをほとんど見させてもらい、自分が知りたかった部分をメモにした。先祖が五百年前に京都から十一人の家来を連れて徳島県美馬市に移住したことが書かれてあった。先祖が平頼盛の子孫の家盛につながっていることも系図で証明されていた。長年にわたりいろんなお寺や図書館を回ったことで、逢坂家が家盛の子孫につながっていることが解明されたのだ。家盛の墓が美馬市に存在する事実も古い寺の過去帳から発見されている。

 伯父の話によると、故郷の徳島県美馬市のこの地域では昔から全員に苗字があったらしい。なぜあんな小さな辺鄙な村に苗字が存在したのか、子供のころから不思議に思っていた。当時日本の村は一般的に規模も小さく、農民一人ひとりに苗字がなかった。しかし祖母達の生まれた村には古くから墓に苗字が刻まれていた。普通の田舎なのに苗字があることが疑問だったが、伯父の話で少し謎が解けたように感じた。

 苗字というものに興味を持ち始めたのは、今思えば小学校の担任の先生が歴史に詳しく、特に苗字や地名の由来の話をよく聞かせて下さったからだろう。

 先生は歴史が好きらしく、毎日のように平家物語のあらすじや源氏物語を読んで下さった。中でも特に源平合戦の話では地元神戸に関係した場所がとても多く、また歴史的に存在価値の高い名所や遺跡も数多く存在しているので、話がとても面白かった。それぞれの地域の名前の由来なども児童に興味がわくように話をして下さった記憶がある。また、祖父母の故郷である香川県徳島県の逸話もあったので、子供ながら真剣に聞いたものだ。先生の話を心に残したいと思って、貯金箱のお金で生まれて初めて自分のための「本」を買った。その題名は『源平盛衰記』という、子供向けの本である。この本が欲しかったのは担任の先生に感化されたためだと思う。嬉しくて何回か読んでみたかったが、本が汚れるのが嫌だったので一回だけにした。内容はだいたい分かっていたので大事に引き出しの中にしまっていた。

 あれから何十年か経った平成二十九年六月、家の本箱から偶然に旧姓の苗字の題名の本を発見した。

「逢坂氏物語 逢坂氏の歴史をたずねて」二〇〇九年三月一日発行、徳島県在住の逢坂敏夫氏と名乗る方が、自分の苗字のルーツを十年の歳月をかけて一冊の本にしたものだ。私は宝物を見つけたようなはやる気持ちで本を開いた。なぜこの本がここに存在しているのか不思議だった。同じ苗字で私の両親と同郷の逢坂敏夫氏の出現で、やっと自分の苗字の全体像の謎が解けかけたような思いがした。この人の名前が自分の旧姓と同じだったこともあり、何かしら気になっていた。確か三か月ほど前の神戸新聞の朝刊にふと逢坂敏夫氏の記事を見たのである。

 本を書かれた逢坂氏は元徳島県立文書館長をされていた方である。定年後も自分達の歴史を後世の人に伝えるため必死に頑張ってこられたと思う。地道な努力が一冊の本を立派に完成させた。

 その本によれば、諸家の逢坂家系図を見ると「桓武天皇第六皇子、葛原新王に始まり、同新王五代目の平貞盛から二十代、平頼盛から十四代桓武天皇から二十五代の後胤が守屋右衛門の兵衛蔚平朝臣家盛」の記事があり、「守屋」から「逢坂氏」に改姓されていることから、たしかに系図上では平氏系譜に属している。宇治争乱の時「天文年中に家臣共上下十一人ニテ阿波ヘ来タリ」という守屋家盛党もその大半が阿波国に逃げたとある。(後略)すでに平安時代から苗字があったことになっている。

 この本のおかげで私の先祖の苗字が古くからあったことが証明され、長い間の謎が少し解けたようで胸がスーッとした。逢坂敏夫氏の偉業に心からの感謝を捧げたい。