小松弘子のブログ

やさしいエッセー

昭和の歌と作詞

 私は歌が大好きだ。物心ついてから生活の中にいつも歌があった。一日中どこからともなく、昭和の歌が流れている時代だった。多分、同世代の人達も同じだろう。「リンゴの唄」、「東京ラプソディー」、「リンゴ追分」、「哀愁列車」、「赤いランプの終列車」など、昭和二十年代頃、よく聴いたものだ。

私の両親の話では、二歳くらいから毎日のように、流行歌を飽きもせず歌っていたらしい。その時代の流行歌がテレビで流れると、今でも歌うことができる。歌がもっと上手だったら、歌手になりたいと思ったことも事実だ。今でもカラオケ教室に週二回通って、十五年になる。ヘタのヨコ好きかもしれないけれど……。

しかし、テレビで最近の曲を聴いて、リズムは勿論のこと、歌詞さえ心に届かないものが多過ぎると感じる。年をとったせいなのかもしれないが、歌が次から次へと作られ、新人の歌手が現れては消えてゆく時代だ。それが良いかどうかは分からないが……。

 二十年くらい前からカラオケの黄金時代に入った。新聞のテレビ欄には毎日のように、昭和の歌番組がある。嬉しいけれど、どれも似た番組ばかりで工夫がされていない。

 なぜ、今昭和の歌なのか? 最近まで敬遠されていたのに不思議な気がする。年配者に媚びているのか、それとも昔の歌が見直されているのか?

 私は、歌は聴くもの、歌うものとずっと思い込んでいた。ある時ふっと自分でも詞を作りたいと思い、新聞広告で作詞の通信教育があることを知った。お試しレッスン後、入会した。すぐに、色々な教材が送られてきた。

作詞は初めてなので、どれも物珍しくて、とても気持ちが高ぶった。何の知識もないまま、手引書などを読み漁った。そして物を書くことの難しさを味わった。

例えば、演歌は七五調で、余分な言葉は出来るだけ省いて作る。詞の一番、二番、三番の字数を揃えるなど。早速色々試してみたが、全くうまく字数が揃わない。何で字数が揃わないといけないのか? 腹が立ったものだ。もちろんその詞を曲にするとき、行数がバラバラだと作曲出来ないからなのだが、知らないことは恐ろしい。作詞教室に入会して七年目になるが、今でも字数には敏感だ。          

この教室は全国を対象としているので、毎月千曲ほどの応募があるらしい。会員の中から、プロになった人も十人ほどいる。

当初は一つの作品が出来ると大喜びした。それなのに今は毎月三曲出すのが精一杯だ。楽しい時もあるが、苦痛な時もある。

他の人も、きっと悩んでいることだろう。毎月の同人誌のコラムにも、そのことが書かれてあった。プロの作詞家を目指して頑張っている人が大勢いる中で、私も奮闘努力している。いつか、心に残る作品を作りたい。ただ、続けるのみだ。

よく考えると、例え作詞が出来ても、曲がないとただの詩になってしまう。作詞は作詩ではなく、歌われてこその詞であると講座の手引書にあったのを思い出した。どうにか作詞も百曲くらい出来た頃、詞に音楽を入れたらどんな風になるのか?絶対、実現させたい夢が私の心の中に芽生えていた。

 五年後、私はまさか、まさかの作曲の世界に挑戦する日がきた。ピアノも弾けない自分がどうして作曲など出来ようか?

そして、幸運にもその機会がやってきた。コレダ! と直感した日、私は何もためらわず、作曲講座の門を叩いた。教室のドアをそっと押し、中を覗いた。何人かの生徒がピアノを弾いたり、楽譜を見たり、楽しそうな雰囲気だった。皆和やかで楽しそうに雑談していた。優しそうな美しい若い先生が、明るく私を迎え入れてくれた。ああ、良かった。ホッとして見学させてもらい、そこで入会を決意した。

先生は、とても綺麗な声でハミングしながら生徒皆に指導していた。おしゃべりが楽しく、ピアノがとても上手いと思った。

教室の生徒は皆ピアノが堪能で、私は少し圧倒された。このまま退散したいぐらいだった。

 その時、先生が言った。

「ピアノが弾けなくても大丈夫ですよ。作曲は出来るようになりますから」

 私は、その言葉に救われたのだ。