毛虫のコロちゃん
春になると我が家の小さな庭にも、いろいろな花が咲く。色鮮やかな赤や黄色のチューリップ、少し遅れて鉢植えのバラが咲く。今年は庭にピンクの小さな桃としだれ梅が咲いた。以前からしだれ梅を植えたいと思っていたところ、丁度いい苗木が見つかったので植えることにした。一年経って少し大きくなり花芽がいっぱいついた。たちまち庭が華やかになり、お互いを競うように可愛い花を付けた。来年もきっと咲いて喜ばせてくれることだろう。
このあいだ草木の手入れをしているとき、赤いバラが強烈に目に入った。毎年このバラを見ると、ずーっと昔の光景を思い出す。
次男が小学二年生に書いた「毛虫のコロちゃん」という作文である。
話の内容はいたって簡潔でほほえましい。いつかこのお話を自分なりに、一つの物語として残しておきたいと思った。
『毛虫のコロちゃん』
小学二年生になったばかりの暖かいある日のこと。僕はいつものように学校から帰ると、ランドセルを玄関口にポンと置いて庭に出た。いつも友達のN君と遊ぶ約束をするのだが、今日は学校を欠席していたので、しかたなく真っすぐ家に帰った。いつもN君と学校の帰り道に、毎回近くの山によって基地を作って遊んでいた。基地あそびはとても楽しくて二人とも大好きだった。
今までに欠席などしたことのなかったN君が、この日学校を欠席していた。なぜだろう、病気になったのだろうか? 僕は家に帰るまでN君のことばかり考えていた。ひとり家に帰っても面白くなかった。
しかたなく庭に出て花を見ることにした。大きな赤いバラが一輪だけ咲いていた。またN君のことを思い出していた。ただ目の前のバラが笑っているような気がした。少し元気が出てきたので、花びらをじっと見ているいつもより綺麗に感じた。なぜバラが好きなのか、特に理由はなかった。
その時、花びらの中で何やら黒いものが、ごそごそと動くのを発見した。
「あれ、何だろう?」
僕はじーっと、バラの花びらが揺れているのを見つめた。そこには小さな一匹の黒い毛虫が動いているではないか。
「可愛いな。毛虫の子供だ。名前をつけてあげようかな。そうだ。コロコロと歩いているから、「コロちゃん」 にしよう。コロちゃん、人間に見つかったら殺されるかもしれないよ。さあ早く逃がしてあげよう」
そのとき玄関からお母さんの声がしたので、振り向いた。
「ぺーたん、おかえり。今日も学校は楽しかったかしら?」
「シィー。お母さん、大きな声を出さないで」
僕は人間の声に小さな毛虫が驚いて、バラの花びらから落ちないかと心配した。少し遠くにいたお母さんは、僕が何をしゃべっているのか分からないようだった。
「バラの花に何かいるの? もし毛虫だったら触ってはダメよ。刺されたらとても痛いからね」
「大丈夫だから、こっちに来ないでね」
と僕が言ったのに、お母さんがバラの鉢植えの近くまでやって来た。
「きゃー。黒い毛虫じゃないの。小さくても刺されたら大変よ」
お母さんはすぐに、ほうきと長い棒を持ってきた。
「わあー、コロちゃんが危ない」
僕はドキドキしながら成り行きを見守った。
「そこにじっとしていなさい。毛虫をやっつけるから、絶対触ってはダメよ」
あくまでも毛虫を殺すか、外の溝に落とすつもりだ。
「まだ赤ちゃんみたいだから殺さないで! 何も悪いことをしていないのだから可哀相だよ」
僕の必死の言葉に、お母さんがほうきを手からはなした。
「そうね。この毛虫は赤ちゃんみたいだから助けてあげましょう」
そう言ってお母さんは、ポケットからティッシュ ぺーパーを取り出した。
「ちょっと待って。僕がコロちゃんを逃がしてあげるから」
僕は宝物を触るように、コロちゃんをそーっとペーパーに包み、近くの山に逃がしてあげた。ここはN君と一緒に基地ごっこで遊んでいる場所だった。N君がいたらきっと二人で、コロちゃんを木の下に隠していたかもしれないな。そして学校の帰り道に、ここにやってきてコロちゃんを観察していたかもしれない。
「さあーコロちゃん、もう大丈夫だからどこへでも行きなさい。人間に見つからないようにね」
次の日学校から帰って、バラの植木鉢を見に行った。
やっぱりN君は今日も学校に来ていなかった。どうしたのだろう? だんだん心配になったけれど、先生はN君のことは何も言っていなかった。淋しいなー。
「もしかしてコロちゃんが僕の家へ来ているかも。そうだったら大きくなるまで、今度は虫かごで飼ってあげたいな」
けれどもバラの近くを探しても、「コロちゃん」 はいなかった。
「コロちゃん、一人ぼっちで淋しいだろうな。ひょっとして誰かにつかまっていないかな」
次の日、学校に行ってもコロちゃんが思い出されて、涙が出て仕方なかった。次の日、お父さんにこのことを話すと、
「コロちゃん、きっと大丈夫だよ。大きくなって蝶々になって空を飛んでいると思うよ」
「へえ、すごいな。コロちゃんは蝶々に変身することができるの」
僕はその話を聞き、何だか嬉しくて元気がでてきた。
「きっと蝶々になって、僕に会いに来てね」
三日後、先生からN君が神戸市灘区に転校することを聞かされた。
その日から二十数年が過ぎ、次男は結婚して子供が二人できた。何年かして私達の近くに引っ越してこしてきた。
ある日のこと、皆で夕食をすませて雑談をしていたら、お嫁さんが突然に叫んだ。
「イヤー、家の中にやぶ蚊がいるわ。子供が刺されたら大変よ。まだ幼いので要注意だわ」
大人ならまだしも、下の子は赤ちゃんだから赤く腫れ上がるかもしれない。私以上にお嫁さんは蚊を嫌がっていた。
「早く何とかして!」
私はその声に驚いて、何とかしなくてはと立ち上がって、蚊を手でたたこうとした。
その時だった。
「ちょっと待って。蚊は何もしていないのだから殺さなくてもいいと思うよ」
あくまでも次男の冷静な態度に、私はあの当時のコロちゃんの記憶がよみがえった。
「たかが蚊でしょ。そんなに騒がなくてもいいのじゃない。僕が外へ逃がすよ」
次男の面白い理屈に、お嫁さんと顔を見合わせて笑った。
「たかが害虫の蚊でしょ。殺した方が正解だと思うけど。ちょっと変だと思うわ」
お嫁さんも私と同感に違いない。
しばらくして次男はカーテンに止まった蚊を、そっと捕まえて窓から外へ逃がした。
「さー、終わった。終わった」
何事もなかったような、すまし顔が余計に可笑しかったのか、お嫁さんは笑い転げた。
「三つ子の魂百まで」
なるほどね。