小松弘子のブログ

やさしいエッセー

孫の新体操発表会

 私の家族には孫が二人。一人は男の子でもうすぐ小学三年生。もう一人が女の子で今春小学一年生になる。二人ともついこの間まで赤ちゃんだと思っていたが、いつの間にか大きくなった感がある。

次男一家は三年前に京都から神戸市に引っ越してきたのだ。同居ではないが、家が近いので月に一度は必ず顔を合わせている。その度に「神戸のおばあちゃん」と、だんだんと懐いてくれるようになったので嬉しい限りだ。いろいろな場面でその成長ぶりに驚かされる。

当たり前のことだが孫に限らず、どこの子供達も元気が良く生き生きと輝いて見える。子供時代は自分の将来や色んな夢を空想できるからだろう。大人は自分の先が見えているから何事も控えめで、あまり冒険をしない人が自然と多くなる。奇抜な考え方は自分を含め、だんだんと避けて通る癖がつく。その点子供は天真爛漫で物おじしないのが特徴だ。何でも思ったことをストレートに口に出す。

 孫達に何かを尋ねると、即座に面白い答えが返ってくる。例えば「なぞなぞ」とか、今、流行しているおもちゃの遊び方など。とても楽しいがこちらも、よーく頭を働かせないと、理解できない会話に悩まされる。それでも大人達は子供達に新鮮な話題を聞き、楽しい思いをさせてもらっているから本当は幸せだ。

先日、女の子の新体操の発表会があった。一月の寒い土曜日だった。私は隣の会場で開演するまでの間、座席の順番取りに並ばされた。一体いつまでこの寒いところで開演を待つのだろう。

 すぐに本番の会場に入れると思っていたので不満に思った。しかし周りを見渡しても誰も不平を言っていなかった。むしろ皆の顔は身内の発表会の期待で、微笑んでいるようにさえ見えた。

ずっと前方に次男夫婦と男の子の孫が、同じように観覧席の順番取りを待っているのが見えた。女の子はもっと早い時間から練習に来ていたのだろう。

私は身勝手な不満を恥じた。

お嫁さんの顔が見えたので、

「今日は発表会に呼んで頂き有難う。あなたも一緒によく頑張ったわね。子供の練習の送迎など、いろいろ大変だったわね。これからも応援しますよ。舞台の最後まで見させて頂くわね」

「お義母さん、長時間並んでもらってすみませんでした。やっと初めての発表会に出ることができて本当に嬉しいです。風邪がとても流行っているみたいで、今日の発表会に出席できない子供が何人かいたらしいの。可哀相に。とても残念だったでしょうに……」

 お嫁さんの優しい言葉を聞いた時、まるで我が子のように心から心配している。

 発表会を待ち続けて一時間後、いよいよ会場入りになった。階段を上りかけると、三歳位の子供や孫と同年代の子供や、他にもジュニア選手みたいな人が、どっと降りてきた。

どの子供達も今日の主役だ。髪型も衣装も普段とは全く違い、艶やかで物語のヒロインだった。女の子は小さくても、着るものによって心まで変われる。

 皆とても良い顔をしてほほえましい。ドアの隙間からハイ、ハイと子供達に指導をしている先生の大きな声が聞えた。ドア越しに孫がいないかどうか、遠くから覗いた。どの子供も同じ髪型で同じ衣装なので、孫を探し当てるのは無理だと思った。私が見つけられなかったら、出番の前に次男が教えてくれるだろう。

一階は広いアリーナで観覧席は二階だった。会場を見渡した時、私は三十五年位前、社交ダンス発表会で隣のグリーンアリーナ会場で踊ったことを思い出した。何となく参加者の嬉しさと不安の気持ちが分かるような気がした。

「お母さん、言っておくけど幼稚園の発表会の時のように、大きな声を出さないでよ。どの子が上手だとかも言わないでね」

 あーあー、またもや次男に注意された。せっかく良い思い出に浸っていたのに、夢を消され、ショックだった。

「分かっているわ。黙って見ているからして安心して」

 今までに大きな声を出してもいないのに……。ウキウキした心が沈んでしまった。その時次男が、

「お母さん、オープニングの次の曲目だからね。ほら、見て! 後ろから二番目に準備して座っているよ」

「ハイハイ、良く見えているわ。同じ衣装なので間違えそうね。でも大丈夫よ。あの子は背が高くてスマートだから、すぐわかるわ」

オープニングの後に同年代らしい女の子が十八人、恥ずかしそうに、しかし颯爽と広いフロアに出てきた。一斉に拍手がなった。どの子も晴れがましい顔で可愛らしい。着ているレオタードはブルーが基調で、とてもセンスが良かった。皆、上級者と同じように背筋を伸ばし、スタイルも良かった。先生方の苦労や力量が感じられた。

お嫁さんの話によると、新体操の会員数が近年増えているらしいとのことだ。プログラムで百八十人の参加を知った。将来のオリンピック出場を目指して、親も子も頑張っているのだろう。

演目の紹介が終わってから、孫達の踊る一曲目の「テール・スピン」という音楽が流れてきた。全員がフープを持ち、軽やかに力強く踊る。上手く揃っているではないか。

そういえば孫が家に来たとき、新体操の練習だと言って足を頭近くまで上げたり、エビのようなポーズをしているのを思い出した。

皆、リズム感が良く爽やかで気持ちが良かった。私は自分が踊っているみたいになった。さっきの息子の嫌な話は忘れていた。もしも、お嫁さんに同じ注意をされたら、サッサと家に帰っていただろうな……。お嫁さんは賢いから軽口は絶対に言わない。

孫はどこの位置で踊っているのだろうか、と思って探していたら、

「一番前の左から二番目にいるよ。分かったかな?」

 次男が教えてくれた。

 自分の孫くらいすぐに見つけられると思っていたのに……。あーあー、歳は取りたくないものだ。

 一曲目が終わって、下のフロアの端で孫達が記念写真を撮ってもらっていたのが見えた。この時、孫が見えたので思わず手を振った。偶然目が合い、にっこりと笑ってくれた。もっとも両親がすぐそばにいたので、そちらに手を振り笑ったのかもしれない。

 なんと言っても子供は誰でも自分の親が大好きだ。

今度家に来たら聞いてみようかな。やめておく方が正解かもね。

 次々にジュニアとシニア選手の個人競技や卒業選手の見事な演技へと進んでいった。私はまるでテレビの新体操世界大会を見ている気持になった。

 一直線に伸びた長い脚や素早い身体の動き、顔と手足の細かい表情など。決してオリンピックの選手に負けない演技も、二本位あったように思った。

決して簡単にできる体操ではない。人に見えないところで何年も何回も苦労して培われる技だ。また日々努力を重ねてきた上に、数人だけがこの道でやっと報われるのだ。本当に厳しい世界だと思う。

運が悪く怪我をして、泣く泣く引退せざるを得なかった人も大勢いたことだろう。それにも負けず頑張ってきた人が残れる。どの世界も同じだと思う。

発表会が午後一時から始まって三時間が経過した。四時になり素晴らしい会が終わった。

お嫁さんに挨拶をして、さあ家に帰ろうと横を見たが姿がなかった。

「今から新体操の本番が始まるので、すぐに座席の順番取りに行ったよ。五時から八時まで本番だからね」

「えっえー、今終わったのがリハーサルだったの」

私はあっけにとられた。

 

初春の旅

 平成最後のお正月が終わった一月四日、家族と一緒に旅をした。旅の目的は特別になく、恒例になっている親睦会みたいなものだ。

今年は兵庫県相生市の万葉の岬を皮切りに赤穂市の大石神社、赤穂城址などを見学。その日の夕方に岡山県湯郷温泉まで足を延ばす日程だ。

出発の朝、冬だというのに暖かかった。晴天にも恵まれたので、皆の顔もにこやかだ。

「おはよう、今日は天気で良かったね。運転よろしくね」

 運転をしてくれる長男は風邪が治ったばかりだった。私は少し心配だったが、敢えて声を明るくしてしゃべった。

「大丈夫。大丈夫だけどお母さん、車の中で居眠りばっかりしないでよ。高速道路を走るから後部座席のシートベルトだけは忘れないでね」

「うん、分かっているわ。ここから山陽道の乗り口まで近いから、すぐにベルトをしておくわ」

 今回もシートベルトのことで、息子にきつく注意された。それもそのはず、昨年一月に淡路島の水仙郷へ行く途中の出来事だった。私がベルトをしてなかったために、垂水ジャンクションの入り口手前で、パトカーに捕まったのだ。

 忘れもしないあの日も、今日のような気持ちの良い天気だった。さあ今から明石海峡を渡るのだと思いながらも、私は後部座席のシートベルトをすっかり忘れていた。自宅から淡路島行の高速道路入り口は車で五分の距離なので油断をしていた。

 そんなことで結局のところ淡路島行は取りやめたのだった。その後、私は後部座席に乗る時は必ずベルト着用を守っている。

昨年の苦い経験を思い出したが、今年は今年だ。

予定通り山陽道相生市に入り、いろいろ見学してから、次の日は岡山県湯郷温泉に行く手はずだ。岡山県近辺は今までに家族で何度か訪れたことがあった。神戸市内から山陽道を走ると一時間半位で温泉街に着くことができるので、大変便利な位置にある。

少し北には名湯と呼ばれる湯原温泉奥津温泉があり、それらの北には蒜山高原、ずっと南西には倉敷市美観地区がある。昨年までに名所と呼ばれるところはだいたい見学してきた。

今回一番印象に残ったのは、最初に訪れた相生市万葉の岬から見える瀬戸の海だ。久しぶりだったから余計に美しく感じたのかもしれない。やはり自然の壮大な景色には惹かれる何かがある。岬は百八十度のパノラマになっているので、相生市の街と赤穂市の街と瀬戸内海が一望できる。大小の島々が無数に点在して、海に浮かぶさまには圧倒される。目に映る真っ青な空と穏やかな水平線が、果てしなく続き美しい。海の見える丘にはいろいろな種類の椿が植えられて、一面に良い香りを放っていた。

海は見渡す限り広い。波は静かでキラキラ輝き、とんびが五羽、空高く悠々と舞っていた。今こうして一人岬に立ち、この素晴らしい景色を眺めている。

何気ない日常の平凡が、人生の一番の幸せかも……。お正月早々ゆったりとした気分を味わいながら、そぞろ歩きをしている時、古そうな歌碑を見つけた。詠み人は山部赤人と書かれていた。百人一首古事記か何かの本で知った名前で驚いた。万葉の岬に来たのは三度目だったのに、歌碑をじっくり眺めたのは初めてのように感じた。

今まで歌碑を見ているはずなのに、なんの感動もしなかったようだ。それとも歌碑が建っていることさえ覚えていなかったのか? 

改めて山部赤人の和歌を詠もうとしたが、石碑の文字は漢字ばかりで読めなかった。石碑の横にこの歌の説明があった。もし自分が平安時代にこの岬に立ち寄ったとして、少しでも赤人と同じことを考えただろうか? 

この石碑の文字が彫られてから千年以上経っている。しかも一つ一つの文字が今こうして残っているのを見て、改めて文字の持つ力を想った。

和歌を後世に残してくれた山部赤人は、どんな人物だったのかも知りたいと思った。私は赤人の和歌をしっかりと覚えているつもりでいた。是非とも覚えておきたいとも思っていた。

ところが帰宅して来週のエッセイに書きたいと思ったが、山部赤人の和歌が一向に思い出せなかった。そこで相生市図書館に問い合わせると、ファックスですぐに親切に送ってもらえたので有難かった。

ファックスによると、石碑の現代語に直したものは、 「縄の浦ゆ背向(そがい)に見ゆる沖つ島漕ぎ廻(み)る舟は釣しすらしも」 と読むそうだ。解釈が難しいので、近いうちに図書館で調べることにしよう。

来年春は どこに行けるのか楽しみである。

 

田子の浦に うち出てみれば白妙の

富士の高嶺に 雪は降りつつ   山辺赤人

カラオケのつどいにて

 今年も春から冬へ季節が巡り、とうとう師走を迎えてしまった。毎年何をして暮らしてきたのかと反省している今日この頃。欲を言えばきりがないし、まずは有難く暮らせた一年だったと感じている。

そんな週末、趣味で習っているカラオケの会が神戸市西区で開催され、教室から三人参加した。     会場は小さなカラオケサロンで、私達が入ると店は一杯になった。どうも最後の客みたいだった。空いている席を探したが、すでに先客で埋められ、狭い座席しかなかった。三人でやっと座れたが、窮屈で仕方がなかった。

「どこかに一つだけでも空席がないかな?」

立ち上がってキョロキョロ見ていると、斜め正面の一番前に席があるように見えた。

「大人三人座ると狭いので、前に移動したいわ」

そう言って一緒に参加した隣席の男性に声をかけると、

「あの席の横にはハンドバッグなど置いてあるので、後から誰かが座るみたいだ。無理だと思うよ」 

いかにも男性が考えそうな言葉だった。

「でも五人席に三人が座っているようなので、空席かどうか聞いてみるわ」

私の案内された席は、よく見ると五人用の長椅子に六人座るようになっていた。朝から六時間余りもこの狭い席で我慢するなど……、とても無理だ。   私は少し離れたその席に行こうと考えた。移動できるのは今しかない。開演前に思い切ってその座席に向かった。

「すみません。ここの席は空いていますでしょうか?」

するとその席のご婦人が、

「ええ、空いていますよ。どうぞ」

と言って気持ちよく答えてくれたのでほっとした。一緒に参加した男性は、席が狭くても辛抱すべき

だと言っていた。

一般的に男性はどうも体裁をかまいすぎる。こん

な小さなことでも気をもむなんて……。

五分ぐらいして主催者の挨拶があり、カラオケの会が始まった。最初の人が演歌を歌いだした。皆それぞれに上手だった。最近は歌唱力のレベルアップに驚く。どこの集いも参加する年代の幅は広い。今日は七十歳代が一番多かった。

私は十五年以上カラオケにはまっている。一年に数回歌の発表会に参加している。

息子達はビデオディスクでその様子を見て、

「恥ずかしいからやめてよ」

の連発である。私がカラオケに通っているのは、たんなる「思い出作り」 に過ぎないから、一向にやめようと思わない。最初は恥ずかしいと感じたが、段々と慣れてくるものだ。

最近は息子達も「まあ趣味の世界のことだから、お母さん、お好きなように」 とあきれ顔で容認しているみたいだ。どの会も出演者の衣裳は年々派手になり、歌手顔負けのパフォーマンスをして会場を沸かす人も時々見かける。皆今を楽しんでいるのだ。

周りの人から馬鹿馬鹿しく思われても、残された時間を精一杯、楽しんでいるのだろう。

ある店で「歌は元気の源だ!」 と聞いたことがあり、それはそれでいいと思う。

そんなことを考えているうちに、隣席の人が歌う番になった。どんな曲を歌うのだろうとプログラムを見た。なんと曲名は熊本民謡『おてもやん』 だった。

今までカラオケの会で一度も聞いていない曲だったから一瞬驚いた。珍しい選曲なので何か思惑がありそうだと感じた。舞台で歌っているその人のソプラノの声はとても綺麗で、発音もはっきりして良かった。

何よりも歌っている表情がゆったりとして、聴いている側もなぜか引き込まれるのだ。思わず「上手い」 と拍手した。その人が歌い終わり、席に着いてから、私はさっきの疑問を尋ねてみた。

「民謡『おてもやん』 の歌を選んだのは珍しいですね。歌声もすごく素敵だったわ」

「まあ、褒めて頂いて有難う。教職を辞めてから二十五年余りになるの。今までにコーラスやシャンソンを習ったことがあり、随分長い間歌ってきたわ。勿論民謡や童謡もね。二十年以上住んできた地域の会のリーダーとして、今も皆と一緒に歌っているのよ」

プログラムを見て、その人がSさんという名前であることが分かった。少しの会話だったが、Sさんの歌に対する情熱を感じた。私よりずっと歌のジャンルが広くキャリアも長い。カラオケ仲間にキャリアの長い人は沢山いるが、大抵は一般的な知識しか無く、ただ平凡にカラオケを楽しんでいる人が多い。その中でSさんみたいな歌を深く愛する人もいることを知った。やはり堂々として見えるのは、人生の豊富な経験と知識、音楽に対する意識の違いだろうか……。

今回『おてもやん』 を歌ったのは誰も選ばない曲の方が、皆の印象に残ると考えたからだというのだ。通常カラオケの会では演歌やポップスが多く歌われる。そんな中で異色の歌は、清涼剤となり観客に喜ばれることが多いのだ。

「なるほどね、私も同感です。今日は、『百万本のバラ』 と木下結子さんの『マリーゴールドの恋』 を歌おうと思っているのです」

開演中なので私は小さな声でしゃべった。するとSさんがすかさず、

「あら、私もずーっと昔、『百万本のバラ』 をよく練習したものよ。あの曲はとても大好きで、何十回も皆の前で歌ったのよ。でもとても難しい曲で苦労した」

と言われた。

私は以前からこの歌が難しいことを知っていた。が、今回歌いたくなったので挑戦したのだ。偶然にSさんからそのことを聞かされ、プレッシャーを感じた。いつも以上に焦ってしまいそうだ。

「Sさん、『百万本のバラ』 はもっと練習して選ぶべき曲ですね。この歌に慣れるために選んだけれど、正直なところ私の選曲ミスですね」

と言い訳したい気持ちだった。まさか隣の席にこの曲をよく歌っていた人に出会ってしまうなんて……。

とうとう自分が歌う順番が回ってきた。名前を呼ばれて小さな舞台の前に立った。皆の視線が集まった。

前奏の音楽が聴こえて、四つのトトトン、トトトン、トトトン、トトトンで歌いだす。「小さな家とキャンバス……」 語りと言われる部分である。出足はうまくいった。

ところが次の章節で音程が狂ってしまった。あーあー、失敗だ。三連と言われる音符ばかりで、ほとんど語りの低音だ。歌いにくい箇所が続く。いつも音程が変になり、途中から何とか持ち直すパターンが多いのだ。

この時ふと気に留めていたSさんを見た。真顔で何も表情は変わっていなかった。しかし本心は下手だなと思っているだろうな……。よく見るとこの曲に合わせて手拍子をしてくれている。嬉しかった。やっと落ち着いて歌えた。皆が手拍子をしてくれているのも見えた。少しだけ笑顔になれた。何とか最後まで歌い終えることができた。

 『百万本のバラ』 この日を最後に、人前で歌うのを止めようと思った。しかしながら名曲だ。だからこそ練習を続けて、いつか上手く歌えるように努力しなければならない……。

歌を教えてもらっている先生のために……。

なにより自分のために、少しだけでも……。

いいえ、 もっと大事なことを忘れていた。

“歌は心で歌うもの”

花の三人、お遍路さん

平成三十年十月から四度目の四国お遍路旅を始めた。今回は前回までのメンバーではなく、体操教室の先生と先生のお姉さん、三人で行くことになった。

八十八カ所の旅の始まりは、六年前の平成二十四年の春だった。その後、三回経験したが完了する迄の道のりは本当に厳しい。まさしく修行の旅である。

歌の仲間五人と始めたが、三回を完了するのに五年間かかった。当初は私を含め四人が仕事を持っていたから、まず日程調整が難しかった。

お参りに持参する用具が沢山あり、全部揃えないと開始できないのだ。また完了するには体と心の準備も大事な条件に含まれる。皆高齢なので動きやすい季節の春と秋に絞った。雨の日は足元が危ないし、ロウソクや線香がつかないことがあるので、晴れた日だけに限った。ますます実行できる日が少なくなる。

旅の道中は楽しみも多いが、いわゆる難所と呼ばれる道のりが私達を苦しめた。その辛い覚悟が無かった私は、もう遍路旅は一回きりでおしまいにしたいと何回も思ったものだ。

しかしながら春や秋の自然の中で見る景色に感動して心が洗われた時は、また旅に出たいと思うのだ。いろんな人によく、「三回もお遍路旅をして意味があるの?」 と言われたが、その場面に同じ状況は一遍たりとない。時は移り行き、人の感情も変わってゆくので決して同じ繰り返しではないと思う。

四国八十八カ所を巡る長い旅は苛酷な時が多かった。今振り返ってみると友人達に助けられ、ご当地の人達にも励まされた。仲間たちとの絆もより深まり、三度も経験できたことに感謝と感慨を覚えている。

昨年の春に三回目のお遍路旅が終わり、もう四国参りの縁はなくなったと思っていた。私の気持ちの中では充分満足できたかなと思っていたのだが……。

七月のある日、体操教室の先生と仲間五人でお茶をした時のことだ。一時間くらい経って四国参りの話が盛り上がった。

 先輩のNさんが、

「私はまだお遍路旅に行ったことが無いのよ。生涯に一度はお参りに行ってみたいと思っていたのだけれど、八十歳になっても実現できなかったわ」

 と同年代のKさんに話しかけた。

「あなたは行ったことあるの。一度だけでも行ってみたいと思わない?」

「私はとても皆について行けないわ。ごめんなさい。この歳だから迷惑をかけると思うし、足に自信がないので絶対に無理よ。私はノーよ」

 Kさんのはっきりした返事だった。

 その場が少し白けたみたいだったので、私が口を挟んでしまった。

「あのー先生、Nさん達の参加のことだけれど、八十八カ所の旅全部はきついかもしれないわね。最初の一回目だけ皆とお参りしてみてはどうでしょうか?」  

「そうね。迷っているのだったら一回だけ経験してみて、あとで無理かどうか判断し決めてみたら? 十月は暖かい良い日が多いし行きやすいかもね……。

 実はね、私の姉にちょっと旅のことを話したら行きたいと言っているのよ」

 先生の言葉に、今度はNさんの妹のYさんが言った。

「秋の旅っていいわね。皆さんと一回目の徳島県だけも行きたいと思うけれど……。平地は大丈夫だけれど……。ちょっとだけ考えてみるわ。ねえ、お姉さん」

 いつも控え目のYさんの言葉に先生が言った。

「でもあまり無理はしないでね。体調が良かったら考えてみては?」

 的確な言葉だと思った。

 その話から一カ月後、先生と先生のお姉さんと私、先輩の姉妹の五人でバスツアーを申し込んだ。

 ところが後日、ハプニングが起こった。旅行開始の十日前の朝だった。先生から電話がかかってきた。

「実はね、とんでもないことが起きたの。昨日Yさんから、お姉さんの方が骨折したと連絡があったのよ。お気の毒にしばらく病院通いになるらしいのよ」

 ということで姉妹二人とも参加できなくなった。Nさん達は二人とも四国旅を楽しみにしていたのだけれど、本当に残念だっただろう。

先生も今までによく似た経験があったらしい。

 十年前位から幾度も巡礼旅をしたいと考えていたが、結局のところ一度も行けなかったという。今までに友人と何回か行けるチャンスに恵まれたにもかかわらず、お参りの間際になると駄目になるらしい。

 私は以前にもそんなエピソードを聞いたことがある。何か因縁めいたものを感じているが、息子曰く、「お母さん、また四国旅に行くの? お母さんはまだまだ修業が足りないので、弘法大使さんが呼んでおられるのだと思うよ。お参りを充分するべきかもね」

 憎らしい言い方だが、全くその言葉通りである。

 

  いよいよ十月二十四日朝、集合場所の学園都市駅前から三人で、四国八十八カ所お遍路の旅を開始した。久しぶりのバスツアーで心は童心に帰ったように思えた。先生とお姉さんは四国参りが初めてだったが、暖かな天気でもあり嬉しそうに見えた。

三人はバス停でお互いに会釈をして座席についた。

私の隣席は一人旅の女性で、もの静かな人だった。

「おはようございます。今日一日よろしくね」

と私から先に挨拶をした。

「こちらこそよろしくお願いします」

 あちらこちらでもこんな会話が聞こえた。一時間も経つとバスの中が和気あいあいというか、少しだけ賑やかになった。主婦らしい女性客が多かった。隣の席の方はご主人の供養のお参りだと分かった。二十代と思われる若い女性も数人いたが、このグループはただの観光かもしれない。

八十八カ所の一回目のツアーは、一番札所「霊山寺」から始まり、六番札所「安楽寺」で終わる。

バスにはガイドさんのほか、先達と呼ばれるベテランの案内人さんなど四人が同行する。

このツアーで一番驚いたのは、一番札所に着く前に車中で般若心経を唱えることだった。教本は配られていたが、お経をあげる声は出にくかった。けれどもお経が終わると、なぜか気持ちがすがすがしくなり不思議だった。

今回バスツアーに参加して良かったことは沢山あった。般若心経の一部だけでも何十回も唱えられたこと、先達さんの貴重な経験や知識を教わったこと。今までにない充実した日々を体験できたこと……。

個人旅行では味わえない豊富なお遍路旅の情報を、先達さんから教えられ有難いと感じた。

改めて弘法大使の偉業を想った。

後日、二回目の十番札所「切幡寺」は片道三百三十三階段の坂道があり苦労した。先生のお姉さんは細身で、平生から朝歩きをしているので楽だと言っていた。私は坂道になると息が苦しく階段も苦手で、私一人だけがお寺に最後に着いてしまった。四度目になるにもかかわらず、景色などは特徴のあるお寺しか記憶にない。

お寺ではすでにお経を唱え始めていたので、あわてて列に入った。私は皆の真剣な顔と姿を見て、遅れてきたことに恐縮した。お経をあげつつ人それぞれの悩みや祈り、心のうちなどを考えた。

今までにどれだけの人がこのお寺にお参りしたのだろう……。建立されて千二百年以上を経ているが、様々な祈りは成就されたのだろうか……。

今回気持ちだけは、ゆったりとしたお参りになったので有難いと思っている。次の十二月は、「十二番札所焼山寺」から、「十五番札所国分寺」の日帰り旅行となる。

来年一月は高知県内に入り、一泊二日の四回目の旅が始まる。今まで寒い時期は避けてきたのだが、一度冬にもお参りできたらと思っている。

私は二年前に「花のお遍路さん」の歌を作ったことがあった。今回の旅でこの歌に続くものが作れると嬉しいのだが……。

さて次回は……?

www.youtube.com

もの想う秋に・・・

 今年も十一月初旬を過ぎると、さすがに秋本番になり、異常に暑かった夏を忘れさせる。秋らしい快適な日々が続いて爽やかな気分だ。

 街を歩く女性のファッションも、カラフルな夏色から、いっぺんに落ち着いた秋物衣料に変わった。

 あー、しみじみと秋を楽しみたい……。けれども季節は弥が上にも、すぐに寒いだけの冬に向かってしまう。その冬が来る前に、京都独特の素晴らしい紅葉色を見たいと、今年もワクワクしているのだが……。

近年は何度も紅葉のチャンスを見逃して後悔している。今年こそは紅葉の京都を訪れたいが、紅葉の最も美しい期間は、たったの一週間位である。忙しい人には日程調整も難しくて大変だと思う。

今秋十一月に入ってすぐに、用があって京都の知恩院と、その足で下賀茂神社へ行った。

当然のことながら、どちらも紅葉はなかった。初めから紅葉の期待はしていなかったが、後に再び訪れられるかどうかは分からないので、複雑な気持ちのままの観光だった。

それでも初めての下賀茂神社見学は、とても興味ある場所だった。数回テレビで人工の小川に和歌を流す行事のあることを知り、一度訪れたかった場所だった。上賀茂神社と共に、平安時代に栄えた一区画である。平安時代の貴族達の風流な文化が今もなお、神社のところどころに残っている。御手洗川に和歌を流し楽しんだという行事も受け継がれている。最近は一般の人達にも開放する日があるらしくて、なんと昨年から八歳の孫も、お願い事を書いて遊んだという。

毎年お嫁さんの実家は、お正月に必ず下賀茂神社で家族の安泰祈祷をしているという。先日次男夫婦から初めてその話を聞いた。日本の伝統ともいえる慣習が、今もなお続いているのは嬉しいことだ。

二人兄妹の孫に、

「下賀茂神社の神様に何をお願いしたのかな? 小さな紙にちゃんと書けたのかな」

「うーん……。ちゃんと書けたよ。ねえ、お兄ちゃん」

 と六歳になったばかりの妹が嬉しそうに兄を見ていた。

「もう八歳なんだから、ちゃんと書けているに決まっているよ。来年もみんなで一緒にお参りに行こうな」

孫たちは家に来たら、真っ先に主人の仏壇に手を合わせている。お祈りする小さな手が可愛らしい。

「賢くしていると、お願いごとを聞いてもらえるかもね。京都のおばあちゃんとおじいちゃんと一緒に、来年のお正月もお参りに行けるといいね」

 と言った時、そばにいたお嫁さんの顔がほころんだ。今年ももうすぐお正月を迎える。年末も家族そろって実家に帰り、両親と過ごす幸せな時を思い出したのだろうか。私達それぞれの家族にとって、今が一番幸せな時かもしれない、としみじみ思った。

 

 十月末に体操仲間のSさんが、皆に体操を辞めることを告げた。せっかく親しくなれたのに……。 Sさんの突然の発言にとてもショックを受けた。

 辞められる理由は親戚のたった一人のおばさんの、介護をしたいからだという。淋しい気持ちだが、なんとも仕方ないことだ……。

Sさんと私は一年半前まで、お互いに挨拶をする程度の付き合いだった。

二年程前に体操の先生からSさんと私が同じ年齢だと聞き、急に親近感を持った。お互いに何でも頑張ろうね、などと話したものだった。

一年半前Sさんに、

「恥ずかしけれど私のエッセイ見て頂けるかしら? 元、学校の先生だったあなたに読んでもらえれば有難いと思って……。お忙しいのにすみません」

と言って私は厚かましくエッセイを見せた。

「まあ、私も昔エッセイ教室に通ったことがあったのよ。もちろん読ませて頂くわ。私も退職してすぐに、あれやこれやと挑戦したものよ」

と言ってニコニコ顔で受け取ってくれた。

「今はね、短歌とか絵手紙の書き方などを習っているの。今はまだ下手だけどね。アッハッハ」

 実にあっさりとした何とも痛快な返事だった。

「まあ、下手だなんて嘘でしょう……。読んでもらえそうで嬉しいわ。有難う。ヘンなところがあったら正直に言ってね」

体操教室が終わって三日後に、Sさんから丁寧なお手紙が送られてきた。来週お互いに教室で顔を合わせるのに……と、恐縮したものだった。

元教師だったSさんの文章は、さすがに上手かった。

つくづく自分の文章の下手さを思い知らされるばかりだった。今思うと、特に文章の基礎が分かっていないことを、やんわりと私に教えてくれていた。全くその通りだ。今もなお、まだまだ未熟な自分だ。

エッセイ教室に通い始めた頃は、書くことがとにかく楽しかった。それで最初の頃のエッセイをSさんに読んでもらったのだ。

特に文法の初歩が理解できず、先生を困らせたものだ。先生の熱意と皆のフォローがなかったら、続けられなかっただろう。

 Sさんが体操教室を辞められた後に、お手紙とご本人発行の詩集が送られてきた。戦後の日本を生きてきた、同世代の哀しみが綴られていた。心が通じ合えると感じていたSさんの顔が浮かんできた。

Sさんの青春時代の苦悩が詩に込められて、何か熱いものを感じた。

「エッセイも詩も、自分をさらけ出しているから本当に恥ずかしいわね。アッハッハ。あなたもそのように思わない?」

 と屈託のない笑い声が耳に残っている。

「そうね、恥ずかしいけれど正直な心が書けるのは良いことだと思うわ」

 Sさんに私の気持ちを伝えなかったけれど、同じことを考えているだろうか……?

 いつの日かSさんから、

「エッセイに応募して又、入選したわよ。あなたまだなの? 早く頑張りなさい!」

 そんな元気な声が聞かれそうな気がする……。

悩みの種は多い方が良い?

 古今東西、人には何らかの悩みがつきまとうものである。小さなものから深刻なものまで、悩みの種は尽きない。生きている以上誰もが背負い、解消するまで苦しみを伴わせる強者だ。

 だから悩みは少ない方が良いのだが、逆に多ければ多いほど人間は逞しく変わることもあり、どちらが正しいかは分からない。  

 占い師の助言や風水によると、どうも神様や仏様が迷える人間に試練を与えているらしい。弱い人間はそれを真摯に受け止めて、それなりの対処方法の知恵を探し、反省し前進すれば解決に向かうという。

 そもそも人並みの人間は未熟者であり、小さい悩みにも弱いのが普通だ。果たして神様や仏様がこの世で存在するのかどうかは別として、目に見えない力で生かされているのは否めない。

「ちょっと聞いてもらえる? 十年前に結婚した娘のことなのだけど、未だに子供ができないの。親の心配をよそに、本人はあっけらかんとしたものよ。本当に困ってしまうわ。何か良い解決方法はないかしら?」

 友人としてお付き合いをして、かれこれ二十年間になる彼女の深刻な表情に戸惑いながら、

「そうねえ、三十代前半までに子供ができないと、女性もしんどいわね。私達親の立場からも孫の世話が大変だし、娘夫婦の将来も不安だろうしね」

 突然に相談された私は、本当のところ面苦らってしまったが、切実な問題なので真剣に答えなければと、

「子供ができなくても幸せに暮らしているケースもあるし、本人が望めばまだチャンスはいろいろあると思うわ。諦めないで多くの人のアドバイスを参考にしたら良いかもね……。実はね、近所の方で、息子さん夫婦に子供ができなくて、親御さんが勝手に判断して、離婚を息子さんに薦めているケースもあるのよ」

「へえー、親が息子達に対してそんな怖い考えを持つなんて、驚いてしまうわ。子供が結婚して一人前になったのだから、本人達に判断させるべきよ」

 当人は未熟な私に相談しながら、正しい知識と答えをちゃんと言い当てているではないか。もともと名回答など初めから期待はしていないようで、とにかく誰でも良いから心の憂さを晴らしたいだけ、なのかも? 

 一般に母親は自分が死ぬまで、良いにつけ悪しきにつけ子供のことを心配するものだ。子供にとって、その気遣いが負担な時がある。ある年齢になれば少し距離を置いて、見守ってもいいのではないか?

 しかしながら私も、つい息子達の将来に自分の考えを押し付けている感があり、いつも反省している。子供の方がすっかり成長して、冷静に親を見ているかもしれない。

 人の悩みはさまざまあるが、年を重ねていくと避けられない問題が出てくる。つまり高齢になり身体がいつの間にか衰えてゆく。誰もが決して避けられない老化現象だ。

 いつか訪れる自分の身体の変化が、本当は一番大きな悩みの種かもしれない。私も七十歳を迎えてから身体のあちこちに違和感が出てきた。それらに付いてくる痛みは、悪魔のごとく突然にやってくる。

自分だけはまだ大丈夫だ、と自信を持っていても駄目である。

昨年二月、午前中に体操教室が終わってから、先生と仲間で有馬温泉へ行った。釜飯の美味しい店があると聞いたので、ぶらぶら歩きながら昼食を摂りに店に向かった。釜飯は明石の昼網の魚が入って大層美味しかった。久しぶりに山の良い空気を吸って気持ち良かった。

有馬温泉は坂道の多い街だった。この日私は最後の階段を登りきったところで、膝に異常な痛みを感じた。

「痛い! 嘘でしょ? あーあー、ついに私も……。先が思いやられるわ」

 帰宅してから整形外科通いの生活をする羽目になった。幸い三か月ほどで元の足に戻ったみたいだったが、完治はしていないので毎月一回ヒアルロン酸の注射に通っている。

 新聞やテレビで老化の始まりは、まず足や腰に現れるという。毎日欠かさず運動と、グルコサミンやコンドロイチンを摂取すれば良くなるらしい。どの広告も元気に歩いている姿を載せている。

 ある時、病院でそれらを飲むと効果があるのか尋ねたが、どの先生も首をかしげる。たいした効き目は期待しない方が良さそうだ。この種の痛みは医者には分かってもらえないのか、ドンドンと商品は売れているみたいだ。

 私もついに宣伝文句にのせられて買ってしまった。

息子曰く、「健康食品なので害はないが、効果は何年も飲み続けないとわからない。高くつく」 と言う。

飲み始めて五か月を過ぎた。足の痛みは無いので不満はないが……。

 

今朝も体操教室の仲間が揃った。

「そう、そう、先日Aさんが家で転んで鎖骨を折ってしまったらしいの。お気の毒だったわね。元気いっぱいのAさんの姿を見ないと淋しいね」

 丈夫な身体が自慢だったAさんも、思わぬ怪我に見舞われた。八十三歳のAさんは足腰がとても丈夫で、いつも朗らかでお喋りが楽しい人だ。私は十二年先の自分の目標にしていた方だった。いつ頃体操教室に来られるのか心配だった。

 ある日、先生からAさんのお話があった。三か月もしないうちに、ひょっこり教室を覗かれるかもしれないと聞いた。家でリハビリを頑張り、早く皆の顔が見たいと言われているらしい。少しだけ安心である。

近年は八十歳後半になっても、お元気な方が多い。

「目にはメガネ、耳に補聴器、手に杖を持ち……。

目薬、胃薬、痛み止めの薬を持ち歩く。あー、あ―、歳はとりたくないものだ」 

 八十八歳で亡くなった父の言葉だが、亡くなる二カ月まで弱音を言わなかった。今の私には無理だ。私達三人とも精神も肉体も、父に比べて全くひ弱である。誰も間違いなく父に似ていない。

 最後の入院先で私の顔を見ながら、しみじみと言った。

「お前たち三人とも頼りない子供やったなあ。皆もっとしっかりしないと、先に逝ったお母さんに申し訳ないやろ。宝くじも当たらなかったし……。まあ、仕方がないわ。自分の子供やしなあ……。けれど子供の出来が悪い分、長生きできたのかも……。

いつも言っているけれど、人間は最後まで何事も諦めたらあかんで。わしもとうとう死ぬまで生きたわ」

 死ぬまで生きる? 当たり前やろ。最期の一言まで冗談を言う面白い人だった。短気で頑固だったが、本当はやさしい父だった。

 父の最大の悩みは、残してゆく三人の子供だったに違いない。

 お父さん、ごめんね。今は本当に有難う……。

おしゃべりは楽しんで

 十月の気持ちのいい朝、いつものように体操教室の前で十六人の仲間と顔を合わす。

「おはようございます。皆さんと顔を合わすのが一週間ぶりだけど、お元気そうで良かったわ」 

「私もあなたに会えて嬉しいわ」

たった一週間ぶりの再会なのに、いつものように皆が喜んでいる。今日は全員が参加できているのか、お互いが無意識のうちに、無事だったのかを確認しているように感じた。参加している平均年齢は、とうとう七十歳になってしまったので無理もないが……。

誰もがこの年代になると、相手の健康状態がとても気になるものだ。

 もしも一人でも仲間の姿が見えないと、

「今日あの人来られてないみたいけれど、どうされたのかしら? 心配だわ。誰か知りませんか?」

 という会話が、あちこちで囁かれることになる。

「ひょっとしてAさんのこと? このあいだスーパーで偶然にお会いしたのだけれど、元気にされていたわよ。確か、お孫さんの体育祭があり、今日は代休で学校がお休みらしいの。どうもお嫁さんに頼まれて、自分が子供さんを預かっているのと違うかしら?」

「まあ、元気なことが分かって良かったわ。以前から足が痛いと言っていたので心配していたのよ」

 その話から暫くの間いろんな話題が出て、お喋りの声が段々と大きくなる。自分も含めてついつい、話に夢中になってしまうのだ。

 普通の主婦はとにかく、他愛もないお喋りが好きだ。一般の男性からは、「女性は何時間も、よくもまあ飽きもせず、お喋りが続くものだ」 と敬遠されるが、当の本人達曰く、

「主婦の一日の栄養分と、ご褒美みたいなものよ」

 と軽く宣う。いくら嫌われても平気だ。

 私の経験上お喋りをすることにより、友情が深まったり、知らない世界を聞いて驚いたりすることもある。また自分の見たいテレビ番組が広がることもあり、特に先輩たちの話は、私には何かと役立っている。お喋りの最期が楽しければ、一日中良い気分になったりする。

そんなことを考えているうちに、皆がガヤガヤと教室に入ってきた。

時計を見ていた先生が言った。

「皆さん、もうぼちぼち身体を動かしましょうか?」

「まあー先生、始まるのが遅くなって、どうもすみませんでした。皆の一週間分のお話が面白くて、つい話し込んでしまいました。さあ、今日も頑張るわ。よろしくお願いします」

 と言って一番先輩の人が、皆の代弁をしてくれた。

「今日は研修会で新しい演目が完成したの。少しずつで良いので、頑張って覚えましょうね」

 いつものように準備体操から始まり、次に新しいタイプの運動の説明になった。

 先生は音楽に合わせながら、スムーズに体を動かし始めた。

「皆さん、初めは難しいと感じますが、慣れてくると簡単にできると思いますので頑張って下さいね」

今風の速いリズムの運動だった。

「少しずつ分かりましたか? ハイ、一、ニ、三、四、元気よく五、六、七、八」

先生は軽やかに踊り続けた。

「うわー、めちゃくちゃ難しい。けれど頭の体操だと思ってやってみるわ。ねえ、皆さん、そう思わない?さあ、頑張りましょう」

一番先輩の人が皆を励ましたので、あやふやながら身体を動かした。私には少し難しい運動だった。どんな動きも最初は無理だが、いつの間にかそれらしくなる。後ろから皆の動きをみたが、やはりぎこちなさそうな動きだった。リズムに乗っていなかったが、皆の楽しそうに踊っていた。なんとか完成するには二カ月はかかりそうだ。

三回同じ曲をかけて練習したが、到底ものにならなかった。皆の顔がそれぞれに笑っていた。

「それじゃ皆さん、お茶でも飲んで少し休憩しましょう」

 その言葉で皆の顔がほころんだ。

「あーあー、今日も音楽に合わせて身体がついていかなかったわ。やれやれ年をとりたくないものね。でも今日も体操で元気を頂いたわ。いつも先生には感謝でいっぱい。習ってから三十年、いつまで続けられるかしら。」 

 このクラスで一番の高齢の人が独り言のように言った。途端にその声で、皆のお喋りがあちこちで始まった。皆は身体と頭の体操をしたお陰で、若返ったように綺麗な顔をしていた。どの顔にも良い汗がにじんでいた。

「体操のあった日は、すごく身体が軽くなって一週間調子がいいのよ。皆さん、そう思うでしょう?」

 一番若い人の声だったので、思わず振り返った。

「その通りよ。確かに元気をもらうわね。ずっと長く続けていきたいものよね」

六十歳後半の人がほとんどで、三十年以上になる人が大勢いる。無理をしなくてもよい教室なので、私も気楽にマイペースで楽しませて貰っている。

一時間半ほどで十二曲の体操が終わった。

今日も教室が終わってから、先生と仲間とお茶の時間を持った。

「お教室の時間が終わったら、私も普通の主婦だし皆さんと同じ立場よ。お喋りが好きだし何でも気軽に言ってね」

 時々、先生のその言葉を耳にしているので、皆も一層親近感を持ち気軽にお喋りしているが、先生には何かオーラを感じて、皆一目置いているのは確かだ。なるほど普通の主婦でありながら、何でもオールマイティーにこなしている。だから生徒は憧れているし尊敬もしている。

 昼食を摂りながら、

「いつも思っているのだけれど、先生の性格は女性じゃなく男性並みなのね。それも柔な男性が逃げていくぐらい、しっかりしていてね」

 一番先輩の人が感心して言った。

「やめてよー。それは無いでしょう。私も女性だから弱い面も一杯あるのよ。皆にいちいち言わないけれど、皆と同じような悩みもあるものよ」

「へえー、先生も悩みがねー。それをお聞きしてひと安心だわ。またいつかお話を聞かせてね」

 誰でもそれぞれの人生、いろいろ複雑な環境の中で生きているものだ。

「先生はいつでも明るいし、ストレスなんかに負けたことが無いのでしょう?」

「そのように見えるかもしれないけれど、体操を始めてから四十年、本当にいろいろ問題があったものよ。身体の故障や家族と生徒さんの心配とかね」

 誰にでも長く生きている間には、様々な状況に遭遇する。人生いろいろ、人もいろいろ。昔それに似た歌があり、ヒットしたことを思い出した。

「人生、一日、一日を大切に生きたら良いのだ。明日に希望を持って、いくつになってもお喋りを楽しもう」