信州の旅㈣
明日は信州の旅の最終日。さて、今日の民宿はどんな所にあるのだろうか、運転中の息子に尋ねた。
「もうすぐ諏訪湖が見えてくるよ。その近くにある民宿だよ。諏訪湖畔の宿だから、お風呂もあると思うけど」
私はお風呂の有無など忘れていた。
「今さっき入ってきたばかりだから、気にしなくても大丈夫よ。そのことより初めての諏訪湖の方が楽しみよ」
車窓からは夕焼けと共に、まわりの風景がくっきりと見えだした。夕暮れの湖畔は素敵だろうな…。もうすぐ諏訪湖が見えてくると思うと、嬉しくて落ち着かなかった。
その時、諏訪湖の景色が目に入った。少しずつ湖が鮮明に見えだした。
「わー、これが諏訪湖なのね。思っていたより大きくてとても美しいわ」
何年か前のスイス旅行での、レマン湖を思い出させた。あの時は有名なレマン湖畔あたりに泊まりたかったが、ツアーの値段が高すぎて諦めせざるを得なかったのだ。今回は国内の湖だが、決してレマン湖に負けないくらいの美しさに感じた。湖畔近くに泊まれることが一番良かった。
湖畔をほぼ一周したところに、ボートを何隻か泊めてある、小さな民宿この民宿に着くと、ここの家族は早めの夕食をとっていた。
「いらっしゃいませ。夕食は七時になっています。お風呂は地下にありますので」
「わかりました。よろしくお願いします」
お決まりの挨拶を交わし、奥さんらしい人が二階の部屋へ案内してくれた。私達のほかに三組が泊まれる作りだった。さっそく部屋の窓から外を見た。夕暮れの諏訪湖全体が姿を現した。
「わあー、ここから湖の素敵な景色が見られますね」
私は嬉しくて、つい声が出てしまった。
「はい、湖に夕陽が沈むまで見られるので、お客さんに喜ばれています。民宿として改装したところ、毎年すぐに予約でいっぱいになります」
温かい家族的な雰囲気で人気があるのだろう。
次の朝、早く目が覚めたので湖のほとりを、ゆったりとした気分で散策した。水は豊富でカモなどが呑気そうに遊んでいた。
朝から天気は上々だ。朝食を済ませて車に乗り込んだ。息子の説明では、ここから松本駅まで戻り、そこから高速道路を利用して上高地に向かうらしい。
上高地は今までに八回くらい旅行したことがあった。季節を問わず飽きない土地柄である。見覚えのある風景が次々に現れては通り過ぎていった。
しばらくして車から現地の観光バスに乗り換えた。十五分くらい経つと、左手に高い山が見えてきた。
「あの山はきっと焼岳だわ。よく見ると、かすかに煙が見えたもの」
ビデオを撮っていた息子は、私の声が良く聞こえなかったのか、首をかしげていた。
焼岳を横目に見ながら、二十分くらいで大正池に着いた。バスの乗客と一緒に、久々の大正池を眺めた。
「いつ見ても素晴らしい景色ね」
そんな会話があちらこちらで聞こえた。何年か前に訪れた時の記憶がよみがえった。今年も上高地を旅行できて嬉しかったが、ここから先の河童橋までは一時間ほど歩かなければならなのだ。私は普段あまり歩いていないので足が痛かった。皆に遅れながらついていくのが精一杯だった。
「上高地は緑が綺麗で、いつ来ても素晴らしいところね。何といっても空気が美味しいわ」
「本当にそう思うよ。今回初めて雪が残っている穂高の山々が見られて、本当に良かった。大正池と梓川も綺麗だし、上高地はまさに日本の絶景ともいえるところやなあ」
息子の言葉はピッタリだった。河童橋付近はやはり大勢の観光客でにぎわっていた。私は水のきれいな梓川の川べりを散策しようと、橋の階段にしゃがんだ。その時、後ろからきた息子達が階段をポンと飛び越えて走っていった。つい真似しようかと考えたが、今までに何度も失敗したことがあったのでやめた。
「みんなー、ちょっと待ってよ! もっとゆっくり進んで。転びそうだし、迷子になりそうだわ」
この思いは誰にも通じない。誰にも分かってもらえない。
皆は私を残してドンドンと足早に梓川の中洲へ向かった。そのうちに皆の姿を見失った。
「もう、皆は薄情だわね」
私はブツブツ独り言を言いながら河原へ降りた。さっさとついて行けない自分に腹が立った。息子達の気持ちも分からないではないが、こんな素晴らしい景色を目にすると、たいていは我を忘れてしまう。昔の自分のように……。
あーあー、足を鍛えて、いつかまた上高地に行けるように頑張るのみだ。