信州の旅㈢
旅の二日目の午前中に、念願の長野県の善光寺参りを終えることができた。
さて今から諏訪湖畔にある民宿に向かって、車を走らせるのだ。旅も二日目になると民宿の良さがわかり、泊まるのが楽しみになってきた。車窓からは雪をかぶった連峰と田園地帯が広がり、日本の独特な風景画を見ているようだった。緑のそよ風と共に良い香りが一面に漂い、自然の恵みの素晴らしさを感じた。
しばらく走っていると、山の中腹に一軒の瀟洒な建物が現れた。何の建物だろうと思い、運転をしている息子に聞いた。
「あの建物は何なの? ずいぶんと静かな場所に一軒だけあるのね」
すると息子は、
「日帰り温泉だけでも可能で露天風呂でも有名な松仙閣という旅館だよ。もしも今日泊まる民宿にお風呂がなかったら困るのでね。せめて温泉気分だけでも、とネットで探したのだよ」
親のためにそこまで考えてくれていたのだ。説明通りゆったりとした旅館だ。すぐに温泉旅館の支配人が出迎えてくれた。
「あのー。日帰り入浴だけでもいいのですか?」
私は心配になって係の人に聞いた。
「ハイ、大丈夫ですよ。ここのお湯は珍しく蛇口の水も温泉ですよ。ゆっくり温泉を楽しんでください」
係の人が親切な口調で、広い廊下の向こうにある湯殿を案内してくれた。
「一見小さな建物に見えたけれど、随分と奥行きがあり、何といっても上品な旅館ね」
と私が息子に言うと、
「そう思うだろう。本当はこの旅館を見つけた時、絶対に泊まりたいと思ったが、連休だから全然部屋が空いていなくてね」
「本当に残念だったわね。またいつか来られたらいいね」
大浴場で温泉気分を楽しむことができた。雰囲気が良い名旅館だったが、時間がないのですぐに温泉を後にした。途中の茶臼山の頂上から松本市が一望できた。この付近の山道はりんご畑が続いていた。
「ちょっと車を停めてくれない。りんごの花を見るのは初めてなので、もっとゆっくり眺めたいわ」
車から降りてどこまでも広がるリンゴ畑を見渡した。青空の下のリンゴの花はとても綺麗だった。手にとってよく見ると、桜と同じで五枚の花弁だった。真っ白に近かったが、うすいピンクの花びらが混ざっていた。誰かが美空ひばりの「リンゴ追分」を思い出したのか、気持ちよさそうに歌っていた。
「あの映画は確か青森の話だよ」と、私は言いそうになったが、グッとこらえた。まあ、よく似た風景だから無理もない。秋になったら赤い実が沢山ついて、見事な景色になるだろう。一度だけでもその光景に酔いしれていたいと思った。
それから少し走っていると、りんごの集荷場を見かけた。店先で沢山のりんごを販売していた。
「ちょっと待って。ここでりんごが買えそうよ」
車を止めて、皆でリンゴの試食をした。
「いつものものよりも、このりんごの方がだんぜん甘くて、すごくおいしいと思うから買って帰ろうね」
どうも関西のスーパーでは年中青森県産しか販売していないようなので、珍しい長野県産のりんごを買うことにした。
「少しだけでいいよ。車の荷台がもう一杯だから」
「でも長野県までりんごだけを買いに来ることはないだろうから、少しだけなんて残念だわ」
と私が言うと、息子がインターネットで注文が可能だよ、と教えてくれたので安堵した。今秋は絶対に長野県産のりんごを沢山味わいたいものだ。
皆でりんごを食べている時、ふと四十年くらい前に亡き夫と信州へ旅したことを思い出した。
「ああ、そうだなあ。バケツに冷やしたりんごを二人で食べながら、上高地を散策したなあ。あの時のりんごもシャリシャリして美味しかった」
信州の旅、三日目の明日の朝は上高地を散策するのだ。懐かしいなー。
つづく