小松弘子のブログ

やさしいエッセー

孫達の世代

 近くに住む次男夫婦には、小学二年生の男の子と幼稚園年長組の女の子がいる。二人とも嫁さんに似て可愛らしい顔をしている。もちろん、この年頃の子供達は誰でも可愛く思えるからだ。

今年も敬老の日に家族で訪問してくれた。

「こんにちは。おばあちゃん、また来たよ!」

子供特有の元気一杯な声だ。短い廊下をどたどたと、ふざけながら部屋に入ってきた。

「おばあちゃん、何していたの?」

上の男の子が言った。和室に座ってCDを聴いている私の姿が、不思議だったようだ。

「いらっしゃい、敬老の日だから来てくれたのね。有難う。今ね、『友よ』 という歌の詞を考えていたの」

「ふーん、今鳴っているその曲、おばあちゃんが作っているの?」

 と言っていきなりCDの音のボリュームを大きくした。

「そうなのよ、でもね、良い言葉が思いつかなくて困っているの。教えてくれる?」

「そんなん無理や。分かれへんわ」

 と言いながらも、音楽はしっかり聴いてくれた。近くに置いていたキーボードを出してきて、両手で何の曲か知らないが得意げに弾いた。

「ピアノを弾くのは楽しい? だいぶん上手になったね」

「うん、ちょっとだけね」

 ぜんぜん自慢しない。子供は正直で可愛い。

 その時、息子のお嫁さんが顔を見せた。

「まあ、すみません。子供達がうるさくて」

「大丈夫よ。元気な証拠よ。それにしても、ピアノが上手になったわね」

「はあ、そうですか? それだったら嬉しいです。初めは音楽教室に通わせていたのですが、他の稽古ごとにもお金がかかるので、私が教えることにしたのですよ。妹も新体操と、先月からバレエに通わせているの。新体操の上達条件には、バレエが絶対必要だと言われたので……」

 今の子供達は放課後、毎日のようにいろんな教室に通っている。一週間休みもなく、お稽古ごとや勉強会に参加させられて忙しそうだ。親達も経済面と付き添いで、本当のところ大変苦労している。子供の将来に備えて日々奮闘している姿は、涙ぐましくさえある。どこの家庭も余裕の時間がないみたいだ。

 そういえば先々週、孫たちがやってきた時のことだ。

「お母さん、この算数の問題やけれど分かる?」

 次男夫婦が私に、小学二年生の算数問題を出してきた。

「算数問題は苦手やわ。きっと難しい変わった式でしょ」

 案の定、有名進学塾に入るためのものだった。二問はできたが、次が解答できなかった。

「ちょっと待って、もう一回文章を読み返してみるから」

 息子と並んで立っている、お嫁さんの視線を感じた。

「ブー、ブー、はい時間切れです。全部の問題を十五分で解答して下さい」

 しまった! 制限時間があったのだ。

「あ、はっは。残念でした」

 息子夫婦はお腹を抱えて笑った。

「なんで、こんなに難しい問題なのよ」

 私は解答できなかったので、いらいらした。息子達は二人とも時間オーバーだが、全部正解できたらしい。三十代の若さだからできて当然だろう。

 有名進学塾テストで人を選抜する手段だ。そもそも学校で習っていない難しい問題を要求する? そのことに腹が立った。その塾に入るために、事前に何回も他の入塾テストの訓練をしなくてはならない。はたしてそれが子供の将来の幸せなのか。今の世の中、何か変な気がする。それぞれの子供に似合った特技を伸ばせばいいのではないか。

 もしもみんなが同じ優秀な道に進んだら、優秀の意味が薄れる。他の能力があるにもかかわらず落ちこぼれたら、生きるのが困難になる。当然いろんな塾に通うためにはお金が必要だ。お金持ちだけが良い学校に行けて、優良企業に就職でき一生安泰な生活を送れる。

 ああー、住みにくい世の中だ。

この日は息子達が帰るまで、気分が面白くなかった。孫も次回の算数の練習問題に絞られて、泣きべそをかいていた。午前中はサッカーの練習に追われている。午後は宿題の難しいテスト問題に挑戦だ。見ていて可哀相だが、本人が選んだ道らしいので仕方がない。

子供の頭脳は十歳までにほぼ完成するらしいのだ。次男夫婦もそのことは知っているようで、三歳くらいから幼児教育に熱心だった。

私の子供時代はなんと楽だったのだろう。よく遊び、よく遊んだものだ。だからそれで今、いろんなことに苦労している。もっと勉強をすべきだったかも……。

今の子供は総体的に自分の育ってきた子供時代と全く違う。物事の知識だけは勝っているようだ。

 

敬老のお祝いをしてもらった次の日、友人達五人と会食をした。年に数回、友人がお世話になっている病院の先生を囲んで、季節の食事会をしている。お呼ばれするようになって、かれこれ十年位になった。

この先生の生まれた国はマレーシアで、日本に帰化されておおよそ四十年になるらしい。今年めでたく還暦を迎えられた。京都の医学部在学中に日本人の伴侶を見つけられたそうだ。

立派な医者であり、人格者の気風を感じさせている。今までいろんなお話をさせてもらったが、とにかく日本のことを熟知している。風貌も日本人そっくりで気さくな性格だが、話の内容によってはキラリと大きな目が光る。友人の話では自分の病院の診察時間が終わっても、毎日のようにお年寄りの往診をしたり、夜遅くまで勉強をしているらしい。何よりも一番に患者を大切に思っている方だ。いつも冗談を忘れない話しぶりなので楽しい。お医者さん独特の気取りがない。会食の間、私達も気持ちがほぐれ、何でも質問ができて有意義な時間を過ごしている。

この日、私は孫の話を聞いてもらった。

「うーん、そうやなあ。人間は最終的には自分の道は、自分で決めることになると思うな。まあ、落ち着くところで落ち着くのじゃない。僕もマレーシアで高校時代まで送ったけれど、卒業間近に医者になろうと思ったんだ。僕の兄が日本の東大に行っていたから、京大の医学部を目指したんだ」

 今回の先生の話は初めてだったので

「マレーシア出身だと、試験問題は何語で受けるのですか」

 私はつい、思いつきを口にした。

「勿論、全部英語で解答したけれど、試験問題は思ったより易しかった。在学中は奥さんと社交ダンスに夢中になり、卒業前に競技会で優勝したよ。カラオケ教室にもよく通ったなあ」

 私達は勉強一筋と思っていたので驚いた。先生は子供の頃から、よく遊び良く学んでこられたのだと感じた。何でも状況に応じられる人なのだ。

 友人のご主人が、

「へー、高校卒業寸前に、日本で医者になりたいと頑張ってきたのですね。本当に凄いですね」

「いやー、なかなか難しい面もあったけど、在学中は本当に良く勉強したよ。卒業して医者になってからも、医学書をよく読んで勉強したものだ。最初の勤務の神戸市中央病院では、二年間救急医療担当だった。その頃、夜間勤務でいろんな急患が来るので、まあ大変だったよ。外科や内科は勿論、あらゆる分野の処置を二人でこなしたものだった」

「今でもインターンと呼ばれる医者も、急患をあつかうのですか? 患者側からだと少し不安な気がしますね」

「まあいろいろ問題はありますが、僕たちの頃は何とか乗り切ってきましたよ」

 常時患者を大事に思っている心が感じられた。

「結局のところ、人は好きな仕事が続けられることが一番幸せだと思うよ。それに向かって一生懸命努力したらいいと思うな。そうしたら自然に道が開けて、一生楽しく生きてゆけるかもね」

「そうなんですね。おっしゃる通りです」

皆、そろって頷いた。